主語のない表現の気持ち悪さ
主語のない表現ってありますよね。標語みたいなのもそうですし、ネットの記事や日常会話の中でも、よく見かけます。色々書いてあったり話していたりするのに、書き手や話し手の姿が見えない独特の表現で、いつも気持ち悪さを感じます。
「感動する話」の不気味さ
SNSなどでシェアされたり、ネットニュースなどにも散見される、「感動する話」みたいなのってありますよね。苦難を乗り越えた人の話や、人生を変えた一言みたいな感じの話や、種類は色々あります。
「有名人の◯◯さんが後輩に向けて言った一言が深い」みたいな記事です。当の◯◯さんが「そんなこと言ったことない」と否定することもあるので、真偽不明な情報も多そうです。
この手の記事からは、拭い去れない怪しさを感じます。
それは、語り手の顔が見えないからです。たとえ他人のエピソードだったとしても、それを「取り上げたい自分」というのが、本来は存在しています。でも、こういう記事にはそうした主体がないのです。そのくせ、文末では「こういうことを忘れずにいたいですね!」とか語りかけてきます。気持ち悪いです。
自分の言葉で語ろう
標語とか貼り紙の類も、大抵は主語がありません。短く書く必要があるとはいえ、独特の雰囲気があります。
「廊下は走らない」(小学校の廊下に貼ってある)
「やさしく走ろう」(高速道路に貼ってある)
どちらも「まぁ、そうした方がいいよね」とは思うのですが、主体が見えません。主体を隠して「正しいこと」を言っても、人には響きません。
日常会話でも、主語のない表現に終始していると、世の中の考えを紹介しているだけなのか、その人自身がそう考えているのか、区別がつかなくなります。別に気持ち悪くはありませんが、こういう人と信頼関係を築いて一緒に何かをやるのは難しいです。
本人にそういう意図がなくても、主語がないとコミュニケーションを停滞させがちです。僕は、気をつけたいと思っています。
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