「教える人」ではなく「当事者」として話してみては?
こんなにも「教える人」が多いのは、日本の歴史上、はじめてのことではないでしょうか。組織に属さずに、「個人として何かをしたい」という人が増え、またSNSなどの発達が「個人ブランディング」や「個人発の活動」を容易にしました。
それって、すごく楽しいことだと思うのですが、無理して「教える人」を
やろうとして、嘘っぽくなったり自分らしさを発揮できなくなったりしている人が多いなと思います。
「教える人」の条件って何だろう?
僕自身も、「教える人」として仕事をすることがよくあります。僕は「場づくり」の専門家として、様々な仕事をしています。学校みたいに場づくりのクラスをつくって、受講生に教えています。
なぜ、「教える」ということが仕事になっているかというと、僕自身が「場づくり」を長年実践してきた経験があり、それを多くの人の役に立つように体系化・コンテンツ化しており、さらに伝えることが得意だからです。
「経験だけ」、どこかで学んだ「コンテンツだけ」、あるいは「教える技術だけ」で「教える人」をやるのは、やっぱりちょっと大変です。
「教える人」もいいけど「当事者」という道も
教えるだけの力がないのに、無理に教えようとして色々やると、受け手は白けます。話していても自信が持てませんし、それを隠そうとすると、今度は怪しさが醸し出されてしまいます。中身がないことを話している怪しい人と見なされては、心外でしょう。
そうならないための道が、少なくとも2つあります。
ひとつは単純に、教えるだけの力をつけること。そのために、必要な時間とエネルギーを投じることです。もうひとつは、「教える人」としてではなく、「当事者」として話したり、場をつくったりすることです。
例えば、新しい家族の形を模索して葛藤している当事者なら、達成したことだけでなく、悩みや葛藤などを、そのまま語ることで魅力あるコンテンツになります。同じ悩みや関心事を持つ人なら尚更です。
無理に「教える人」にならなくても、「当事者」として発信すれば、そのことを通して他者や社会とつながれます。時にこうした場は、教える・学ぶという関係性の人たちがつくる場よりも、強いエネルギーを放つことがあります。
教える人をやっていてしっくりこない人は、検討してみてはいかがでしょうか。