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感じたことに善悪はなし

日本社会では「◯◯なんて感じるのは、悪いこと」というような、感じたことに優劣や善悪を持ち込まれることがよくあります。これ、じつは完全なる勘違いなのです。どんなことを感じたとしても、その内容に優劣や善悪はありません。

何を感じるかは自分で選べない

あまり知られていませんが、「感じたこと」というのは自分では選べません。一方で「考えたこと」は自分で選べます。

感じたことと考えたことの違い

「感じたこと」は、喜怒哀楽などの感情、身体感覚(五感)などです。
「考えたこと」は、論理的思考、意志決定などです。

「感じたこと」は、自分で好きに選べません。例えば、スープを出されて飲んでみたけど「不味い」と感じた。せっかくつくってくれたから美味しく飲みたいと考えてみても、やっぱり美味しくない。味覚は「感じたこと」なので、自分では選べません。

問われるべきはどう考えどう行動するか

生身である以上、欲があります。少なくとも、僕にはあります。三大欲求である食欲・性欲・睡眠欲などは、その最たるものです。

性欲なんかは取り扱いが難しいですよね。本当は同じなんですけど、客観的になれない人が多いです。
セクシーな人を見かけて、ついセクシーなことを想像したり、セクシーなフィーリングを得てしまう。「いやらしいこと想像して、最低!」みたいに言われたとしても、仕方がないのです。「感じたこと」は自分で選べませんからね。

でも、本当に問われるべきは、「どう考えどう行動するか」です。

例えば、いやらしい想像が浮かんだ(イメージも感じたことの一部)として、のぞき込んだり触れたりしたら犯罪ですよね。でも、「じろじろ見たら失礼だ」と考えて自制したり、やるべきことに「集中しよう」と判断して切り替えたりする──こうした言動こそが、問われるべきです。

感じたことを否定する弊害

人が本当に責任を負うべきなのは、「感じたこと」ではなく「考えたこと」の方です。

でも、社会生活を営んでいると、食欲・性欲・睡眠欲などを隠すことはよくあるでしょう。それ自体は、ある程度仕方がないと思います。でも、感じたことを安全に表現する場がまったくなかったり、感じたことを否定したりすると、今度は精神に歪みが出てしまいます。

感じたことを認めない、否定すると闇・影の部分が大きくなり、抑圧も激しくなります。それが爆発的な行動につながるとなると、大変心配です。人間関係に問題を生じさせますし、極端に行き過ぎれば犯罪にだってなりかねません。

だからこそ、「感じたこと」に善悪や優劣を持ち込まず、ありのままを認めることが大切です。その上で、実際の行動に移す前に「考える」。この二段構えは、自分らしく他者や社会とつながるためにも、大切なことです。

感じたことを裁くような幼稚な段階から抜け出し、ここをちゃんと区別して取り扱い方を変えていかないと、成熟した社会にならないように思います。

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