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イラストレーターになったきっかけ

小さい頃から絵を描く事は好きでした。
ですが、絵を描く人になるとは微塵も思っていませんでした。

幼稚園の頃は友達と「ドクタースランプ アラレちゃん」をトレーシングペーパーでトレースしたり、小学校ではアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」を録画して自分の気に入った場面で一時停止して描いたり、シーズンごとに変わる「ルパン三世」の次元の自分の好みの顔を探してはひたすら描いたり、ゲーム「信長の野望」や「三国志」の武将の顔を描いたりしているような子供でした。
クラスに何人かいる所謂「絵の上手い子」です。

小中学生の頃描いた絵

その頃に通っていた学習塾がやっていた絵の教室に通います。
自分が実績として「絵を勉強した」と言えるのはこれくらいでしょうか。
絵の教室と言っても、ただ友達とラクガキのようなものを描いては先生に見せてるだけで、一応ここで油絵というモノを初めて体験した以外はほとんど絵の勉強をした記憶はありません。

さて、中学に上がってもクラスでイラストコンテストのようなモノが定期的に開催されたおかげで「絵の上手い子」ではありましたが、同時に美術の成績は人並みかそれ以下、陰影や石膏デッサン、風景模写といったお勉強的な絵が何せ苦手でした。

そして高校に上がると小中学校の友達は散り散りになり、絵を披露する機会も「絵が上手い子」というキャラ付けもなくなります。
そこから自然と絵を描く機会は減り、大学に上がると最早全く描かなくなります。

高校卒業するにあたり、特にやりたいことも無かったので、親の勧めもあり大学進学という道を選択するも、これまた特に勉強したいことが無い。というか勉強したくない。
成績は国語以外は壊滅的、それでも一浪して何とか国士舘大学の文学部で中国文学を専攻する事になります。

ここで自分の問題として自覚していた「コミュ障」を克服しようと居酒屋でバイトを始め、酒を覚えると共にこれまでの生まれ育った土地以外のコミュニティの人達と初めて触れ合い、自分の中で価値観の変化が起こったと今になって思います。

このバイトをしたことで今住んでいる沖縄にバイト仲間と初めて行くことになり、バンドを組んで一度だけのライブをやった時にチラシを描いたことがイラストレーターになるきっかけとなりました。

大学生の時バイト仲間と組んだバンド「ケンタッキーフライドインチキ」のチラシ

結局勉強そっちのけでバイトに明け暮れ大学で得たものは若干の料理の腕とわずかなコミュ力(10段階の1が3になった)くらいで、就職を迎えたモノの相変わらずやりたいことは無い。
飲食店でバイトしてたから飲食、ラジオが好きだからラジオ局、ゲーム「三国志」が好きだからゲーム会社…と取り留めもなく受けるももちろん全滅。

見かねた父親のコネで入れてもらったのは10人ほどのデザイン会社。
しかも新卒採用が初めてという事で、デザイン経験ゼロ、社会常識ゼロ、やる気ゼロの使い物にならない新人を採用した会社もどうしたもんかと頭を抱えたそうです。

課せられた仕事は定時に出社して各社員のデスクのゴミ捨て、洗い物、届け物、イベントの使いっ走り。
それとデザインソフトの勉強。
ここで初めてちゃんとパソコンとイラレを触る事となります。

そんな中、折しも世の中にインターネットが普及し、当時の会社もそこに力を入れよう、という事で入社してきた自分にとってはお師匠と言える人の下に付けられて状況は一変、ホームページ、映像制作などの仕事に携わることとなり、いい歳した男が泣かされる程のスパルタで再教育、定時出社~定時退社の生活から定時出社~終電退社の日々が始まります。

そんなときに届け物で寄った新宿で元バイトのバンド仲間に偶然再会、知り合いの劇団員がバンドのチラシを見て是非チラシを描いて欲しいと言ってるという話を貰います。

会社の仕事はやりたく無いけど、自分がやりたいことも無く、辞めたら路頭に迷う事だけはわかっていた自分は唯一の”ちょっとでも楽しい”事に喜んで飛びつきました。

会社の仕事の合間に劇団のチラシを描き、もちろん会社の人にはバレてましたが、業務に支障がない程度でお目こぼししてもらえました。
またそこで「絵が描ける子」と認識されるようになりましたが、その会社でイラストレーターを使うような仕事はなく、業務として発生する事はありませんでした。

ですが、会社を辞めてフリーのデザイナーになった元社員から仕事がポツポツ来るようになり、その知り合いのデザイン会社などからも徐々に仕事が貰えるようになっていきました。

そうこうしているうちに2002年社会人4年目の年末、
「仕事の印刷物の空きスペースが勿体ないから年賀状でも入れて印刷してもいいよ」
と師匠から言われ、描いたイラストを見た師匠に
「お前絵が上手くなったなあ」
と言われたことがきっかけで会社を辞める決心をしました。
この人が「上手い」と言うのなら何とかなるだろう、と。

何よりも年末年始も無く、常に終電近くまでのハードワーク&薄給の会社を辞めたかった。


2003年の年賀状

ちなみに『お師匠』と言っても絵描きでも無ければ、デザイナーでもありません。
元はプログラマーで、会社ではディレクターとかプロデューサーと言った立ち位置で仕事を取ってきたりデザイナーを使う立場の人でした。
『感覚的にこんな感じがいい…』とか、『何となくわからない…』と言ったことを一切許さず、「何をどう考えて作ったか」「(ちゃんと調べた上で)何がどう分からないか」を逐一言葉にしない限りは許してくれない人でした。
何を教えてもらったかと言えば【考える事】と【モノを作ってお金を頂く事のノウハウ】でしょうか。

「どんなバカにでも理解できるように説明できて初めて”理解した”という事だ」

という言葉は自分の中で一番大切にしていますし、これが出来ると何をやっても強い気がします。

そんなこんなで2003年の7月1日フリーランスとして独立、実家住まい(神奈川)だったので生活は困りませんでした。
またその年にデザイン会社が主催するイラストレーションスクール(現在は会社ごと消滅)に通います。
これまで周りにイラストレーターが居なかったので、同業との繋がりを作る為、イラストレーターについてのノウハウを学ぶ為はもちろんありましたが、

『デザイン会社が主催=仕事がもらえる』

という打算の方が強かったかと思います。

フリーランスになった最初の目標は「一年で100万貯めて実家を出る」
スクールに通いつつ会社での業務経験を活かして自分のウェブサイトを作り、イラストエージェントを探しては登録、企業のPR素材や雑誌、素材集など何でもやりました。

そして目標は達成され、大学で行き慣れていた小田急線の経堂に独り暮らしを始め、30歳にして晴れて完全独立を果たしました。

そこから20年になりますが何とか生きています。
何故なったか、また何故続けられているかと言うと、絵の商売がしたいわけでも、コレしかないと思っているわけでも無く、誤解を恐れずに言えば

「やりたくない事をしなくても金が稼げる一番ラクな方法だったから」

でしかないです。

・風景や背景が苦手なので出来る限り描きたくない
・営業はしたくない

この二つは自分がフリーになった時から今までずっと思っている【やりたくない事】です。
そして、今も風景・背景をすすんでは描きませんし、実際自らどこかに出向いたり電話したりするような営業は全くやりませんが、それでも20年間何とかやれています。

ただやりたくないからやらないで終わらせず、じゃあそのマイナスを何で補填するか?は常に考え続けています。

それを『才能』とかいう言葉に置き換える人もいるかもしれませんが、そういう事は自分で決める事では無いと思っているので、自分自身では絵が上手いとも思っていないし才能があるとも思ってません。

ただただ自分は人の運、時の運に恵まれて生きています。

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