20200430−0504

【展示の感想】

「隔離式濃厚接触室」に入ろうと試みてはじかれる度、見えない他人にぶつかって アッすみません と気恥ずかしくなる、お互いが見えていないだけで確実に存在していて、それぞれが未だ見ぬ何かを覗こうとしていて、動く度 アッすみません が他人の中でも発生しているのかもと思うとドキドキする、ヒリヒリする、

思えば、展覧会場で作品を観るにしても映画館で映画を観るにしても、作品と対峙しているときはいつだって孤独だ、作品と自分の関係性しか無い、それが楽しいんだ、自分の孤独と向き合える、とっておきの時間、豊かな感覚を味わうために美術館などに「鑑賞」しに行っていた、その体験ができるというのか、したい が入れぬ、半ば諦めかけながら何日間か経った


眠れぬまま夜を終えそうになった朝方、試しに5度ほど連続してクリックをしてみる、そうしたらなんと入れてしまって思わずビクリとする、ビクリとしたのち眼中に飛び込んできた画にドキリとする、ドキリとしたのち「私しか居ないのだ」という神妙さに心臓がバクバクし始める、

水沢なおさんの詩
厄介なアイツも仲良しもよく知らないクラスメイトも皆がそれぞれの家路につく、教室にひとり残された放課後はとても寂しかったことを思い出した、ひとりきりだけれど誰かの体温が側で活きていて、西日に照らされて浮かび上がる像は昼の亡霊だったのかもしれない、不確かな体温は今まさに入室しようとしている人たちのものであったりも、するのだろうか、
記憶、
存在しない人間にまつわる記憶、それを感じることは孤独の輪郭をなぞるようなことで、ノスタルジックで寂しいことなのだろうか、入室する前とはまた別の ヒリヒリ を感じた、今度はもっと痛かった、知らないうちに、いつものクセで、画面の向こう側と繋がれるのではと期待してしまっていたのだろう、実際にはそんなの幻想にすぎないのに、ネットってそういうものだと身体が思い込んでいるもんだから、余計に、

でも待ってちょっと、驚いた、詩を読みすすめていくなかで私の確かに思い起こした風景は、よくよく考えてみたら自分の経験したことのない時間にあった、今ここにも過去にもない、いったいそこは何処?はて、私が懐かしんだのはいったい誰の記憶だろう、誰が大切にしている孤独なのだろう

そうしてからみる布施琳太郎さんの作品
詩を読んでいるあいだも見えていた、見えていたけれどそこが本当に私の知っている場所なのか、注視してみてもまるで分からなくなっていた、ぐわんぐわんする、スマートフォンからの入室でGPSの機能が完全な状態になかった、自分の身体がどこにあるのか定まらず、ぐわんぐわん、いよいよ視覚も平衡感覚もなにも信用できなくなった、
あるいは夢なのか、私はついに身体を失って、亡霊になったのかもしれないな


他人の言葉を摂ることで自分の言葉、孤独を失ってしまう、日常的なスマートフォンでの動作であるはずのに、展示会場で作品を「鑑賞」するときと同じ、私の有する孤独が私だけのものである瞬間から一部解き放たれて、誰かのそれと重なり合う、孤独同士の濃厚なコミュニケーションを自室にいなからにしてとることができて、痛かったけれど嬉しかった。もしもう一度入れたら、どう感じるんだろう。PCから入ってみたら、どうだろう。体験したことのない誰かの「あの時」をまた、自分のものとして思い出せるかな。



追記 0507    これは蛇足です

展示を鑑賞するにあたって色々考えた、思考させてくれた、これはスマートフォンからアクセスできる諸々が日常に溶け込み過ぎている今、鑑賞者の在り方をも問いかけるものであるのかもしれない。雑音のない空間で「一人きり」を楽しめ、ちゃんと自分の頭で思考しろ、と言われているような、そんな気もした。

何においても「もう一度観たい」と思わせてくれる作品こそがいい作品であると私は信じている。まずは脊髄反射的な感覚で第一印象を楽しみ、そこでの体験を日常に持ち帰り反駁あるいは他者と対話し、2度目はまた別の視点で鑑賞に挑んでみて、今度は体験を冷静に脳で処理する。
「なんだこれは?是非とも分かりたい!」という欲望、知的好奇心を刺激してくれるのが、現代美術作品がもたらしてくれる第一印象であったと記憶している。そういった姿勢で上記の自身の感想を振り返ると、私はこの度の「隔離式濃厚接触室」との対峙で、会場を有する展覧会で体験するのと同じ「芸術体験」を成し得た。

布施氏が「感染隔離の芸術の時代のためのノート」で、「孤独な時間の体験」を芸術体験と位置付けるのであれば、私は今回確かにその意義においても「芸術体験」をしたことになる。展示会場を必要としない展覧会の在り方を新たに提示し、成立せしめたのがこの「隔離式濃厚接触室」だとすると、その様式が今後も展開され得る可能性を考えざるを得ない。すなわち、完全なる「芸術体験」が日常の隙間に入り込んでくるということだ。(それがアートマーケットにおいてどのような変化をもたらし得るかは私は分からない、だが、「芸術体験」それ自体に物理的な負荷なしでアクセスが出来るという現実は、乱雑で猥雑なコミュニケーションで溢れる世界に生きる現代人の、精神的な豊かさを守ることに繋がるのではないだろうか。)

そこに用いられたのが詩、文字情報のみを用いる芸術であることが肝心なのも理解できる。文字の解像度は読者自身のリテラシーに委ねられ、享受するのに明確な場所を必要としない。私の感じた「自分の頭で思考しろ」というのは、まさにこのことかもしれない。さらに、そこに浮遊感を持つ映像が与えるリアルな現在地と、他者を意識させる限定性によって(これらを「いまここ」と言っていいのだろうか)、言葉の放つ印象が、電子書籍以上の実感を伴って鑑賞者に迫ってくる。(「青」というのは孤独の色なのだろうか、私はそれについても後々考えてみたい。) 「新しい生活様式」が求められているらしい?この時代の変換期に、詩と、現代美術の融合が、「新しい芸術体験」を生んだことは間違いないのではないか。


追記 0505

スマートフォンからの2回目の入室で、今度は落ち着いて詩を味わうことができました。性への純粋な憧れを持つおぼこい きみ にはもう触れられない、そのことに一抹の寂しさを覚える、大人になった きみ (=わたし)がいたように思います。


追記 0508    展示体験を経て考えたこと

孤独は人に思考させる。思考は得てして「自身の言葉」を必要とするが、それを守るには人は孤独でないといけない(上記にある理由の通り)。孤独の存在意義の一つに、人間に思考させ、「自身の言葉」を取り戻させることがあると思われる。

一方で詩は、言葉と言葉の間に距離を持たせる。詩とは「物語」ではなく「瞬間」を刻むものであり、「瞬間」の拡張を文字を用いて試みているので、一つの詩の中には必然的に余白が生まれる。余白とはそのものを見ると「無」であるが、前後左右にある「言葉」に少なからず影響を受ける(この範囲は詩の強度や性質に応じる)。影響を受ける部分を含めて「余白」だろうか。図にするとこんな感じ?

(言葉)>>>(無)<<<(言葉)
       ←      余白      →

まさにその「余白」が、言葉の影響をしっかりと受けつつ、人に思考を促すのだろう。(そういえば、私は布施氏の今年の展示をチェックしていたのだけれど、その頃には色々とビビりきっていたのでアクセスできなかったことを思い出した。どんまいである。)

で、思考し始めた人々が各々の言葉を持つということは、さらにいえば、芸術土壌を育む社会基盤それ自体のリテラシーを向上させることに繋がるのではないか。
いままさに陥落しゆくこの社会において、「人間が人間として生き残る」ために、我々には思考する時間、孤独が必要である。詩が、詩として確かに存在するということは、人が抱える無の時間、孤独が孤独として存在することを肯定し、それにより人は安心して自分の言葉で思考し始めることが可能になるのではないか。
そんなことを思った。

そして「シー」、「青」についても考えた。様々な解釈があると思うが、私はとりあえず、海と捉えたい。それも、海の、「光がときたま届くくらいの深い場所」。私の感じた青さはそういう類のものだった。

「人間が人間として生き残る」

ひとりの人間として考える。広大な海を、深く深く、<太陽>の光の届かないところまで潜り、積極的に自閉し、でも私にエラはないしビタミンDは体内で生成できないからたまに海面まで昇って、すこし、すこしだけ息継ぎをして、また潜って、基本的には静かなところでジーっとする、そうやって、地上にどんな街ができようが、空気がどれだけ汚れようが、海上を走る船がどれだけ沈んでこようが、いつの時代も、何万年だって生き続けてやろうではないか。息を潜めて、脈々と、自分の言葉を大切に守りながら。


芸術だって、そうやって今の今まで続いてきてるんじゃないだろうか。そして、これからも。太陽の、地上の、様々な事情に揉まれつつ、飛ぶものは飛んだり、潜るものは潜ったり、走るもの、歩むもの、泳ぐもの、様々だろうが、私はこの展示体験を通して、「太陽の光の強すぎる今は、光がときたま届くような場所まで潜ったら」、と言われた気がした。


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