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heart of gold

青白い小さな光が瞬いている。顔の横に置いていた折り畳み式の携帯電話が着信を知らせている。着信音やバイブレーションは鳴らない。万が一にもそれで眠っている父親を起こそうものなら携帯電話は壊され、アオイ自身も殴られるだろうことは想像に難くなかった。だからいつも携帯電話は家ではマナーモードのままだった。
父親は隣の居間で眠っているようだった。テレビの音といびきが聞こえる。また酒を飲んでそのままテレビもつけっぱなしに眠ってしまったらしい。居間とは襖で隔たれてはいたが、アオイは携帯電話を掴んで布団の中に潜った。着信は続いている。メールではなく、電話らしい。ボタンに触れないようにそっと開いて画面に表示された名前を見た。
“サヤカ”
アオイはため息を吐いた。まだ夜中である。昨日も同じような時間に電話があった。アオイが携帯電話を買ってもらってから、2〜3日に1回はこんな風に夜中に電話をしてくるのだ。昨日は電話に出た。30分ほど泣きながら話すサヤカの話を聞いてやった。
サヤカの話はアオイにはよくわからないことが多かった。父に気持ちを理解してもらえないのが辛い。学校に行きたいのに行こうと思うと足が竦んでしまう。みんなに嫌われているような気がする。無視された。笑われた。死にたい、死にたい、死んでしまいたい。そんな話を繰り返し訴えてくる。
アオイにはサヤカの気持ちに共感できないことが多かった。「境遇の違い」なんじゃないかとアオイは思っている。
アオイもサヤカも父子家庭だった。そんな話題から最初は話すようになって仲良くなった。でも、家族の構成は同じでも、多分全く違う生活環境なんだろうなとサヤカの話から感じられた。
何度か行ったサヤカの家は大きくて綺麗な一軒家だ。お金持ちの父親と世話焼きの祖母がいる。おねだりして買ってもらった真っ白な毛並みのポメラニアン、可愛らしい家具が揃えられた彼女のための私室。おやつにはハーブティーと彼女の祖母が焼いたクッキーが出された。
アオイの家は1L D Kのアパートで、自分の部屋なんてなかった。家事は父親が行うはずもなく、中学校に上がった頃からアオイが行っていた。
アオイの父親は酒を飲んではアオイを殴った。酒を飲んで機嫌が良かったことの方が少ないのになぜ毎日のように飲むのかアオイには不思議だった。機嫌がマシなときには罵声を浴びせられるだけで済むこともあったが、仕事場で何か気に触るようなことがあったときや、アオイが機嫌を悪化させるような何かをしでかしてしまったときには最悪だった。コップや瓶を投げつけられたり、たばこやライターで皮膚を焼かれたこともあった。
不満ならサヤカの父親と交換してくれといつも思う。彼女の父は殴らないらしいのだ。そればかりか悩みを聞いてくれたり、気分転換に散歩や遠出に連れ出してくれるらしい。サヤカは中学2年生に進級するタイミングでアオイのクラスに転校してきた。前の学校でいじめにあったらしい。転校を勧めてくれたのも父親だと言っていた。それでもサヤカは「パパは私のこと何にもわかってないのよ」と言う。
サヤカには辛いことや悲しいことがたくさんあるらしい。アオイには理解できないことが多いが泣いて訴えるほどなのだから本当に辛いのだろうとアオイは思っている。嘘や気を引きたくて泣いているようには感じられなかった。
大人になったら、もっといろいろなことを経験すれば、そんな自分とは程遠い人の気持ちもわかるようになるのだろうかとアオイは考える。
(そうしたら、優しい人になれるのだろうか)
父親のような大人にはなりたくなかった。泣いている人を慰めてあげられるような優しい人にできればなりたかった。

携帯電話は点滅を続けている。
画面を見つめたまま、昨日の電話をアオイは思い出していた。
サヤカは例によって泣きながら、久しぶりに学校に行ったらクラスの〇〇ちゃんに無視されたと話した。今週は休まず行こうと思っていたのに翌日の学校が怖くて仕方がない、どうしようと。
「無理に行く必要ないんじゃない?勉強は家庭教師に見てもらってるんでしょ」
「でも、行くって自分で決めたのに……。それで行かないってなんか本当に意気地無しな気がして」
「じゃあ行ってみて、やっぱり無理ってなったら帰るとか」
携帯電話越しにサヤカが鼻を啜る音がした。また泣き始めたらしい。アオイは狼狽えてすぐには次の句が継げなかった。サヤカがどうして泣き始めたのかわからなかった。
「ど、どうしたの。なんか嫌なことでも思い出した?」
今度はわっと声を上げて泣き出す声が聞こえた。アオイは慌てて被っていた毛布を抱き寄せ、携帯電話の音量を下げた。窓越しに部屋を覗く。父親は体勢を変えていない。起こしてはいないらしい。狭いアパートの部屋の中で父親を起こさずに夜中に電話なんかできない。毛布を被ってきたが2月の夜中のベランダは酷く冷えて手が悴んだ。
電話の向こうのサヤカの声は興奮しているのか、音量が落とされてもなおアオイの耳にはっきりと届いていた。
「どうしてアオイはそういうことばっかり言うの⁈人の気持ちわかんないの⁈本当に優しくない‼︎もっと私の気持ち考えてよ‼︎」

ごめん、とアオイは咄嗟に謝っていた。責められたら自分が悪くなかろうと何も考えずに謝罪の言葉を口にしてしまうのはアオイの癖であった。
「謝って欲しいんじゃない。……謝らないでよ。惨めな気分になる」
サヤカはぐすぐすと鼻をすすりながらくぐもった声で話す。アオイにはもうどうしたらいいのかわからなかった。混乱しながら、心のどこかで「ああやっぱり」と思っていた。
自分には人の心なんてわからない。
境遇のせいなのか、それとも自身の生まれ持った性質なのか。そう言われることや自分でもそう思うことが度々あった。欠陥品、と父親は罵る。誰かの心が分からなくて焦燥するとき、アオイ自身もそう思った。欠陥品の女の子。
黙りこくったアオイに少し泣き止んだらしいサヤカがおずおずと話し始めた。
ただ共感して欲しかったのだと。解決策ではなくて、自分の心とか感情とかに寄り添うような言葉をかけて欲しかったのだと。
「どうしたらいいかとかそう言うアドバイスじゃなくてね、もっと私が何を思っているのかなとか、どう言う気持ちなのかなって考えて欲しいの。……そういうのが優しいってことじゃないの?」
アオイにはよく分からなかった。サヤカの感情なんて想像しても分からなくて、それでも嘘をついて「わかるよ」って言うことが優しさなのかと考えた。
優しい人間になりたいと思っている。優しさのために嘘をついてもいいのだろうか。嘘をつかれてもその優しさを受ける人は満足なのだろうか。
「わかった。考えるよ」
アオイがそう言うとサヤカは満足そうに「約束ね」と言った。
電話は切れる。悴んだ手で携帯電話を握りしめたままアオイは考える。
優しい人間になりたい。優しさを手に入れられたら、欠陥品じゃなくなったら、こんな身を切るような冷たい孤独と寂しさは消えるのだろうか。

思考の海に沈んでいるうちにも着信は続いている。サヤカの心が電子になって津波のように押し寄せてくるようだった。アオイには理解できないサヤカの心。怪物が襲ってくるように恐ろしく思えた。
(明日、謝ろう)
アオイは携帯電話を枕の下に押し込んだ。音もバイブレーションも切ってあるから、枕ごしには着信が止まったのか続いているのか分からない。
眠っていて着信に気がつかなかったことにして、朝になったらメールか電話で謝ることにした。
隣の居間から漏れ聞こえていたテレビの音が止んだ。いびきも聞こえない。父親が目を覚ましたらしい。ドスドスと数歩重い足音がして、襖が開いた。アオイは目を閉じて寝たフリをする。父親が手前に敷かれた布団に横になって眠り始める。少し経つとまたいびきをかき始めた。
(電話に出ていたら、見つかっていたな)
そう考えて、言い訳のようだと思った。

朝になって朝食を作る。学校に行く途中にサヤカにメールをした。返信はなかった。
その日、陽が暮れる頃になって漸くアオイの携帯に着信があった。サヤカの父親からだった。
サヤカは亡くなったらしい。
朝、父親がサヤカの部屋に行くと、彼女はもう冷たくなっていた。自殺だったとサヤカの父親は話した。

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