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私の死にがみ

 懐かしい少女が立っていた。ずっと会いたかった少女だった。二度と会えないと分かっていても、それでも願ってしまっていた。心の奥底で、ずっと。もう一度会いたいと。

 これまで何度も嗅いだ匂いだ。この匂いによかった思い出は、今まで一つもなかった。いつも、涙と、後悔と、悲しみを運んでくる。それでも、今回ばかりは少しだけ待ち望んでいたような気がする。悲しくて寂しい思いももちろんあるが、会えるような気がするのである。
 だって、こんなにも、会いたいと思っているのだから。

ノックの音がして、扉が開かれる。やっぱり、と思った。
 セーラー服、黒くて長い髪、勝気な輝く瞳。最後に会った時よりも随分と若々しい。そうか、私はあの日の彼女に会いたかったのか。そう、あの日もこんな夕暮れ時だった。
「やっと来てくれたのね。待ってたわ」
 彼女は少し困ったような顔をした。
 こっちへおいでと手招きすると、おずおずと近づいてきて、ベッドサイドに置いてある椅子に腰を下ろした。彼女の手を握ると暖かくて、それがうれしくてたまらなくて、ぎゅっと力を込めた。彼女は少しの間じっとしていたが、やがて繋がれているのとは反対の手で、いたわるようにそっと、繋いだ私の手の甲を撫で始めた。しわの刻まれた、乾いた私の手を、若く瑞々しい美しい掌が優しい力で触れる。
「あなた、死にがみでしょう」
彼女は静かにうつむいていた顔を上げた。悲しそうな、今にも泣きだしそうな表情だった。死を運んでくる者なのに、そんな表情をするなんて。私の死にがみは随分と優しい子らしい。自分がこれから魂を刈りとる対象の生の終わりをこんなにも悲しんでくれる。言い伝えや都市伝説なんかの悪魔のような死神なんてやっぱり嘘。本当はこんなにも美しくて優しい。だってあの日の彼女の姿で来てくれた。

わたしはこれからもうじき死ぬ。こんなにしわしわのおばあちゃんになるまで生きるなんて、生きている彼女と過ごしていたあの頃には思いもしなかった。
色々なことがあった。辛いことも、悲しいこともあった。あっという間に過ぎ去ったような気がして、それでもやはり長い年月だったと思う。私を取り巻く環境が変わり、習慣や考え方が、たくさんのものが少しずつ変わり、もうあの頃と同じもののほうが少ないだろう。
でも、私は、私以外の何者にもなれなかった。どんなにたくさんのものが変わっていっても、私が私であることは変えられない。私という変えられないもの、私を私たらしめる魂を抱えたまま、少しずつ周囲のものだけを変えていき、少しずつ許して、少しずつ認めて、今はもう、私のまま死ぬことに不満はない。
……そう、思いたい。

もう最後だから、最後くらい、私の人生の美しい部分を切り取って、辛かったことや悲しかったことは、それがあったからこそって思って。
自己暗示や都合のいい思い込みだってわかっている。それでも、残していく者に、私の大切な人たちに、私はしあわせに生きたって、後悔なんてなく死んでいったって伝えたい。
だからこそ死にがみはこの姿なのかもしれない。だって私は、彼女が羨ましくて、妬ましくて、彼女が想ってくれたように大好き一色ではなかったはずなのだ。でもこの姿で迎えに来てくれたのを見たら、「会いたかった」と「大好き」しか思えなくなってしまった。

「ねえ、死にがみさん。私の唇に、口紅を塗ってくれないかしら」
「く、くちべに……。うん。ちょっと待ってね」
 死にがみはセーラー服のポケットをパタパタと探って、小さな丸いケースを取り出した。蓋を外して中身を指で掬う。
「はい、口紅だよ。塗るからね」
 細い指が、柔らかな指先が、かさついた唇を優しく撫でている。夕陽に染まる病室の中、あの日に戻ったような気持ちになる。やがて彼女の指が離れていく。
「ありがとう。似合うかしら」
 死にがみは柔らかく微笑んだ。その細めた目から、ぽろっと一粒涙が落ちていった。
「とっても可愛いよ」

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