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いりひなす

夜の寮内は静かだった。昼間のように誰かが歩き回る音や誰かが料理している音、姦しく響くお喋りの声は聞こえない。だが、みんなが寝静まっているという静寂ではなかった。耳を澄ますと、紙の擦る音や音量を落とした音楽、備え付けの古い椅子が小さく軋む音が漏れ聞こえて来る。
看護学校はこの時期、どの学年も忙しかった。一年生は学年末のテストが頻回にあり、二年生は臨床実習の期間、三年生は国家試験を間近に控えている。寮内のほとんどの生徒が夜中まで試験勉強や実習記録のために起きていた。昼間は寮生同士顔を合わせては賑やかに過ごしているが、夜になると寮内の空気は緊張感を纏い、冷たく張り詰めたようになる。

シマキは寮の部屋でまとめ終わった分の実習記録の用紙を揃えてファイルに入れた。明日病棟に持っていくのを忘れないように、実習用としているトートバックに詰める。一息ついて、机の引き出しから未記入の記録用紙を出して広げる。今日の分はこの一枚で終了である。消灯時間からすでに二時間ほどが経っていた。大きく伸びと欠伸をする。同室者である後輩はこたつで突っ伏して居眠りをしていた。部屋には備え付けのベッドと机が二つずつと共有スペースにローテーブルが置かれている。テーブルは冬の間はこたつにしている部屋がほとんどであった。古い寮内は暖房の効きが悪く、朝晩は酷く冷え込むのである。こたつは快適であったが、それゆえに疲労が溜まっているテスト期間や実習中は眠ってしまいがちになるためシマキは勉強や記録の時はなるべく使わないようにしていた。今夜は後輩がこたつを使っていたが、やはり眠気に負けてしまった様子である。肩を軽く揺すって起こす。眠るならベッドでと声をかけると、後輩はのそのそとこたつから這い出てきた。朝早起きして残りを行うことにすると話してベッドに潜り込んでいった。
シマキは部屋着の上からカーディガンを羽織って部屋を出た。廊下は一段と寒かった。消灯時間を過ぎているため、廊下の照明は消されている。二階より上階の各階にはそれぞれキッチンと洗面所、トイレがあり、三部屋六名ずつが生活している。一階には居室はなく、共用の浴場と談話室があった。階段の下から光と声が漏れてくる。談話室で集まって勉強している寮生がいるらしい。階段の反対方向の廊下を覗くと、そちらからも光が漏れている。この階のキッチンの方である。シマキは暗い廊下を進んでいった。
「お疲れ様です。息抜きですか?」
共用のキッチンには先客がいた。室内にはコーヒーの匂いがたっている。その香ばしく温かい香りに、寮内に充満しているピリピリとした冷たい緊張感が解されていくように感じた。
「おつかれ、シマキ。煮詰まっちゃって」
一学年上のワタリはキッチン内の中央に置かれた作業台の上にコーヒーカップと単語帳を置いて座っていた。壁際に三つあるシステムキッチンの一つ、ワタリが普段彼女の同室者と使用している場所のコンロにヤカンがかけられている。ワタリとは学年は違えど寮内でも仲が良かった。彼女と初めて会ったのは去年の春、シマキの入寮の日だった。一年生は上級生と同室になる決まりであり、二年生だったワタリはシマキの最初の同室者だった。
シマキもコーヒー飲む?と言いながら返事を待たずにカップを用意し始める先輩に、追いかけるようにシマキはお礼を言った。もともと気分転換にコーヒーを淹れて飲む目的でキッチンを訪れたため、断るはずもなかった。ワタリとは今年は同室ではなかったので、去年に比べて話す機会が減っていたから、共に過ごせるのは嬉しかった。端に寄せられた椅子を引っ張ってきてワタリが座っていた椅子の隣に並べる。砂糖は入れずにミルクだけ入れたコーヒーが目の前に置かれる。ワタリの前には砂糖だけ入れた黒いコーヒー。礼をいって一口啜った。
「実習、今どこ行ってるんだっけ?小児?」
「成人です。小児は来週から」
実習は実習内容ごとに病棟が変わる。成人看護、老年看護、小児看護、精神看護、急性期看護とそれぞれを一般病棟、小児病棟、精神科病棟、集中治療室と場所を変えて行う。
「先輩は成人のとき、どこの病棟でしたか?」
成人看護と老年看護の実習先の一般病棟は複数の病棟があり、どこの病棟で実習を行うかはランダムとなる。病棟ごとに診療科が違うため、同じ成人看護の実習を行なっていても、実習先の病棟が違う生徒とは調べる内容や看護記録、看護計画が異なって来る。
「私は〇〇病棟だった。婦人科系の癌の患者を受け持ったよ」
こういった実習の話は寮内でよく話されていた。世間話の一環であり、情報交換であったのである。あわよくば実習単位獲得のためのコツや有力情報を教えてはくれないかという下心もあった。
癌、と聞いてシマキは現在自分の受け持っている患者を思った。シマキが受け持っている患者も癌患者であった。
シマキは自分の実習先の病棟と受け持っている患者が癌患者であることを話して、ワタリに時間はあるか聞いた。話を聞いてもらいたかった。

シマキの担当患者は七十代の肺癌の患者であった。成人看護の実習ではあったが、入院患者全体で見ても成人期の患者は少なく、介助量の少ない六十〜七十代の老年期の患者を受け持つことも多かった。
患者はもう数年にわたって闘病しており、何度も抗癌剤の化学療法のために入院を繰り返していた。穏やかな女性で、だがよく話す人だった。孫は男の子だから、女の子と話すのは慣れないかもと言いながら、シマキが朝の挨拶に病室を訪れると嬉しそうに顔を綻ばせた。
抗癌剤の投与を翌日に控えた日、今回の入院が終わったら結婚記念日が近いから夫と食事に行くんだと彼女は話した。
「海辺の食堂でね、全然素敵なレストランとかじゃないの。港の大衆食堂。あら汁がとってもおいしかったの」
結婚記念日と言うのならば、贅沢をしてもいいんじゃないかと話すと、彼女は少し言い淀んでから、内緒話をするように夫との馴れ初めを教えてくれた。
「私、夫とはお見合い結婚なの。夫にも言ったことないんだけどね、本当は結婚するの嫌だったのよ。でもあの時代はね、家同士のことでもあったから結婚するしかなかったの」
昔を思い出すときの凪いだ瞳をした彼女は「嫌だった」と言ったのに柔らかく温かい笑みを浮かべている。
「結婚するちょっと前に二人で海に行ったの。ひどく寒い日でね。でもよく晴れていて空と海が綺麗だった。二人で夕陽が沈むのを見たの。あの人は口数の少ない人で、何にも言わなかったけど、夕陽を見つめる顔をこっそり見たら私すごく安心したの。ちょっと泣きそうな切なそうな顔をしながら、それでも少し笑っているような顔をしてた。ああ、こんな夕陽を見て切なくなるような心の人なら安心だなって思って、結婚が嫌な気持ちが消えちゃったの。きれいなものを同じ気持ちで眺められるような人なら、きっと大丈夫だってね」
彼女は少し照れたようにはにかんで少女のように笑った。
「陽が沈んじゃうと本当に寒くなっちゃって、二人で慌てて食堂に逃げ込んだの。漁師さんみたいな地元の人しかいなくて、とりあえずあったまろうってあら汁を頼んだの。それが本当にあったかくて美味しくて、二人してああ〜って声が出ちゃった。寒かったね、夕陽綺麗だったねってそこで漸く話が弾んだわ。お見合いからまともに話なんかしてなかったのよ」
そのときの食堂がまだあるらしいから、また行きたいのだと話して、彼女はプリントされたコピー用紙を見せてくれた。孫が食堂のホームページを調べて持ってきてくれたのだという。
「あの時とは違う人が作ってるかもしれないし、あの日は寒い思いをした後で余計に美味しく感じたんだと思うから、あの時とは違う味に感じるかもしれないけれどね。あのときとどういう風に変わったとか話しながら食べるのも楽しいと思わない?」
だから、明日からの抗癌剤の治療は「あら汁〜あら汁〜」って念じながら頑張るのよと言って明るく笑った。本当に心から楽しそうな笑顔だとシマキは思った。その後の出来事の後にみた表情を思うと、余計に輝いた笑顔であったように思い出される。
抗癌剤治療は入院後すぐに投与を開始するのではなく、血液検査やレントゲン撮影等を行い、治療が問題なく行えるのかを確認してから開始される。抗癌剤は副作用が強く、病状が芳しくなければ効果よりも副作用による負担が大きくなってしまう。彼女も昨日までに様々な検査を行なっていた。
彼女の検査の結果は思わしくなかった。シマキは朝電子カルテで検査結果を見てすでに知っていた。病状説明は医師からしか行えない決まりとなっているため、彼女にはまだ知らされていなかった。シマキも一緒に検査結果を確認した実習指導の看護師も不安に思っていた。その日の午後に彼女と彼女の家族に治療と病状についての説明を医師から行う予定であった。
午後になって、彼女の夫と娘が到着した。彼女は嬉しそうに夫と退院後の外出予定について話している。せっかくの家族水入らずだからとシマキが病室を出ると、実習指導の看護師に声をかけられた。看護師も説明の場に同席するとのことだった。
病状説明の場に看護師が同席するのは、同席の必要があるときだけであった。説明自体は医師が行う。看護師の役割は主に患者本人や家族のメンタルケアであることが多い。
医師は彼女の余命を数ヶ月と判断した。
検査の結果、癌の転移が見つかったのである。血液検査の数値も悪化していた。明日から予定されていた抗癌剤治療を行なっても、それほど大きな効果を期待することはできそうにない。むしろ副作用で辛いばかりである。そう医師は説明を行なった。
家族と軽く話をして別れた後、シマキは患者と二人で病室に戻ってきた。家族は泣き出しこそしなかったが、明らかに血の気が引いていて動揺を隠しきれない様子だった。看護師が家族の見送りに行った。患者本人の前では表出できない思いもある。何か声かけに行ったのだろう。
彼女は笑顔の消えた顔でベッドに腰掛けている。泣いてはいない。取り乱してもいない。受け止めきれていないからなのか、どこかで覚悟していたのか。ただ、朝には病室に溢れていた彼女の明るさが、すっかり消えていた。
病室のオーバーテーブルの上には病状説明に行く前にシマキや家族と見ていた資料が置いてある。海辺の食堂。夕陽の美しい浜。
楽しく話していたのが遠い昔に感じる。窓の外は夕暮れで、ガラスを貫いて差し込む光に染まった室内は琥珀の中のようだった。
「死にたい」
ぼとっと何か重いものが落っこちたみたいな声音だった。つぶやかれた言葉にシマキは窓から視線を移した。彼女は光から逃れるように窓に背を向けてベッドに腰掛けている。いつも座っているのとは反対側だった。
「不思議ね。もう死ぬのに、死にたいの」
少し俯いていて手元を見ている。いつ手に取ったのか、手にはあのコピー用紙が握られていた。泣いているわけではない。取り乱してもいない。顔を顰めてすらいない。それなのに、その表情は痛みや苦しみに耐えているように見えた。
シマキは母親と住んでいた家にいた頃の自分を思い出した。逃げられない、どこにも行けない。そうわかっていても、どこか遠くへ行きたい。いつもそう思っていた。彼女の表情もそんな風に見えた。

シマキは話し終えて、ぬるくなった残りのコーヒーに口をつけた。隣の席のコーヒーは飲み干されていて、カップは空になっている。
ワタリは右手で左の前腕を軽く掴んで座っている。集中しているときによくする彼女の癖であり、去年同室の時によく見ていた姿であった。
「感情って、喜怒哀楽だけじゃないよね。分類のできない感情って結構あると思うんだ」
掴んだ右手が左腕をゆっくりとさするように動かされる。語る声は柔らかくて、ゆっくりと曖昧な心を縒り合わせて紡いでいるようであった。考えながら話しているのか、いつもより随分とゆっくりとした話し方である。シマキは黙ってコーヒーを口に含みながら次の言葉を待った。
「“死にたい”も、一つの感情だと思う。悲しいからとか、辛いからとか、そういう理由や理屈がなくても“死にたい”って感じることだってあるんだよ、きっと」
ワタリは少し俯いてシマキのほうを見ないまま弱く笑った。どこか遠くを見るような眼差し。昔のことや誰かを思い出しているのだろうかとシマキは考えた。
「なんとなく、わかるような気がします。待っていればいずれ幾ばくもなく死ねるのに、それでも死にたいと思うのは、その現実から目を背けたいっていう否認や逃避なんでしょうか」
「受容過程だね。死に対するものならキューブラ=ロスかな」
「さすが国試前の受験生」
即座に知識を引っ張り出してきたワタリを茶化すとハハハッと高く笑った。もう国家試験は目前である。詰め込まれた用語が反射的に飛び出してくるらしい。少し空気が和んで明るくなり、シマキは知らず詰めていた息を吐いた。
「知識的というか理論的というか、そういうもので測るとそう当てはまるんだろうけどさ。……自分が患者なら、正直嫌だよね。当てはめられるの」
言われて、確かにそうだとシマキは思った。感情は自分自身のものなのに、当てはめられて分類されると自分という個を無視されているような気がする。感情は分類の箱に乱暴に分けてしまうような軽々しいものではなく、もっと曖昧で、もっと深みがあり、もっと彩りに満ちた、重くて大きいその人の核である。
「いろんな人が研究してきた結果である理論ですけど、なんだか私たち医療者が傷つかないようにするためのものみたいだなって思うことがあります。理解できないから、共感できないからどうしていいかわからない。分類してしまえば理論に沿って間違いはないって」
「考えてこその知性なのにね。私は、私のことを考えてくれる人の方がいいなあ。間違っててもいいからさ、誰かの物差しで測ろうとしないでちゃんと私を見て欲しいよ」
シマキは泣きそうな気分でワタリの言葉を噛みしめる。ワタリがそういう人がいいと言うのならば、ワタリ自身もそういう人でありたいと思っているのだろうかと考えると、それだけで彼女の隣がとても安心できる場所に思えてくる。

シマキの母親は常識に囚われすぎる人だった。普通はこうだから、みんなこうしているから、常識的に考えて。そんな枕詞を幾千幾万聞いて育った。シマキは母親の常識の囲いから出ないように生きていた。流行のものや、他人が称賛するもの、他人におかしいと言われないものが母親の世界。シマキに与えられる選択肢。母親はきっと娘が好きなものを知らない。娘がどう思っているかなんて興味がない。囲いの中にいられれば間違いなんてなくて、安心で満足だったのだ。
シマキはもっと母親に自分自身を見て欲しかった。どんなものが好きなのか、どう感じたのか、どう思ったのか、もっと関心を寄せて欲しかった。自分を自分たらしめるものを知って欲しかった。そうでなければ、母の娘は、シマキでなくてもいいことになってしまう。幼いシマキにとって母親は絶対の存在であった。見捨てられたらシマキは生きていけない。成長するにつれて母親の常識は少し極端なのかもしれないと思い始めることができるようになったが、それでも母親に無関心になることはできなかった。親子の情は呪いのようにシマキにまとわりついている。
看護学校の寮に入寮したのはシマキにとって転換期となった。ワタリは、シマキのコーヒーには砂糖を入れずにミルクだけというのを知っている。テレビに出ている国民的アイドルの甘い歌よりも、エッジの効いたインディーズバンドの曲の方をよく聴くことを知っている。なんてことはない認知と承認がたまらなく嬉しかった。

「『死にたい』って聴いてさ、シマキはどう思ったの?なんて返したの?」
言われた直後ははっきり言ってショックだった。上手く受け止めきれず、飲み込めず、なんと返していいかわからなかった。しかし、その後の言葉がシマキの心をそのショック以上に強く揺さぶった。
力なくベッドの端に腰掛けていた彼女はしばらく俯いた後に歪んだ笑顔を貼り付けて言ったのだった。「頑張って助けてくれている病院の方に言うような言葉ではなかったわね。ごめんなさい、忘れてちょうだい」と。
哀しくて、腹立たしくて、悔しかった。せっかく打ち明けてくれた感情を彼女自身でなかったことしようとしていることが。『死にたい』を忌むものとする常識が。
シマキは、患者の目の前に跪いて腰を下ろし、見上げるように目を合わせた。いつも彼女のお喋りを聞くときにそうしていたから。両手を握り締められた彼女の拳に重ねた。彼女の感情を否定せず、忘れたくなんてなかったから。彼女は少し目を見開いてシマキの顔を見つめた後、ふっと小さく息を吐いて泣きそうに眉根を寄せた。力一杯握っていた拳を開いて、緩くシマキと手を繋いだ。彼女は泣かなかった。もう何も言わなかった。しかし手は繋いだままだった。実習の時間が終わり、引率の教師が声をかけにくるまでそうしていた。

「なんで『生きたい』と言うのは良いことで、『死にたい』と言うのはタブーなのか。生きることも死ぬことも、生まれたら必ずもらえるギフトなのに。どうして生きることばかり大切にされるのかって思いました。生まれた感情を殺して欲しくありませんでした。それが、誰かにとって悲しいものでも」
ワタリは左腕を掴んだ姿勢のまま座っている。シマキの話を聴きながら、また何か考え込んでいるらしい。シマキのコーヒーカップも空になっている。カップの底に輪状に残った薄茶色の跡を見ながら「でも、」と続けた。
「あれで良かったのだろうかとずっと考えています。もっと何か声かけをしたり、それかむしろひとりにしてやるべきだったんじゃないかって思ったり」
「きっと正解なんてないんだろうね。ないからこそ、いつまでも考えていかなきゃならない。マニュアルも、理論も通用しないことの方が多い」
ワタリはシマキの方に向き直って座った。少し硬い表情で笑って目を合わせた。
「でもね、私は、私だったら、シマキのようにされたら嬉しいよ」
ほんの少しだけ、硬く結ばれたものが解かれてゆるんだような、安心にも似た気分を覚えた。

ヤカンの中の湯も冷めてきていた。もう一度火にかけ直す。二つのカップを軽く濯いで拭いた。次のはシマキが二人分淹れてくれることになった。ワタリもシマキも部屋に戻ってまた勉強と実習記録の作成を続けるつもりであったので、部屋で飲むおかわりの分である。
インスタントコーヒーの瓶と砂糖やミルクを用意しているシマキの背中をワタリは眺めていた。「先輩」と背中をむけたままシマキは呼び掛けた。
「ん?」
「先輩は、死にたくなったことってありますか?」
ワタリは無意識にまた左腕を掴んだ。掴んだと自覚してぎゅうっと力を込めて握った。シマキに、気がつかれてしまったと思った。その握られた手の、服の袖の内。皮膚を抉るほど強く爪を立てた傷の痕。現実の痛みがなければ耐えられなかった苦しさを思い出す。
答えられないまま立ち尽くすワタリの、その力がこもった右手にシマキがそっと触れた。いつの間にかコーヒーは出来上がっていて、シマキは向かい合って立っていた。触れた右手の甲を宥めるように指先で小さく軽くポンポンと叩かれて、ゆっくりと力は抜けていった。
開いた右手に湯気の立つコーヒーカップが持たされる。冷たくなっていた指先に熱いくらいだった。そろそろと目線をあげると、シマキはまっすぐワタリを見つめていた。その透き通った眼差しに、泣きたくなった。

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