見出し画像

絶対王政 スペイン=オーストリア ハプスブルク家

今回は、近世ヨーロッパ / 絶対王政について学習したいと思います。ハプスブルク家が登場し、これ以降ヨーロッパの政争の歴史に何度も関与するようになります。ハプスブルグ家の絶対王政体制と、その後の同家の歴史を楽しんで学習していきます。


絶対王政

絶対王政は、16世紀から西ヨーロッパ各国で見られる政治体制で、国内の支配を固めるため、市民や農民から直接税を徴収し、常備軍や官僚を通じて統治を行う統治の形態のことを言います。

主権国家体制:自国の支配領域(国境)を囲い込み拡張しつつ、自国内の支配を固める政治体制

絶対王政/キーワード

この間、封建制の主役であった諸侯・騎士は力を失い、国王から特権身分を保証される存在となります。また、国王は「王権神授説」を唱え、自らの権力を神の意志として正当化しました。

絶対王政を学習した教材

今回も、ユーテラ世界史/佐藤幸夫先生のYoutubeから学習しました。ハプスブルグ家 / スペイン王国の家系を使いながら、分かりやすく解説されています。また、世界史の教科書に書かれている内容は細部にわたり、こっそり説明されています。この内容とっても参考になります。

スペインでの絶対王政確立の事例

経緯

レコンキスタ後のスペインは、カスティリャ王国とアラゴン王国の統合により強化され、イザベル女王の統治下でオーストリア・ハプスブルク家と強い姻戚関係を築きました。この関係は、ハプスブルク家がスペインを含む広大な領土を支配する基盤となりました。

16世紀なかばのヨーロッパ詳細版 ©世界の歴史まっぷ

政略的な婚姻による領土拡張

ハプスブルク家は政略結婚を利用して、スペイン、オーストリア、ネーデルランドなど広範囲にわたる領土を確保しました。これにより、アメリカ大陸の新たな土地や資源を手中に収め、巨額の富を蓄積しました。

マクシミリアン1世:神聖ローマ帝国皇帝
妻をブルゴーニュ公国から迎え、ネーデルランドを支配下におきます。

ファナ:スペイン王女/女王イザベルの娘
フィリップ美男公(マクシミリアン1世息子)と結婚

カルロス1世(カール5世)
マクシミリアン1世の孫。王女ファナの息子。スペイン王国国王と神聖ローマ帝国皇帝を兼務

フェルディナント1世:カール5世の弟。次期神聖ローマ帝国皇帝

フェリペ2世:カール5世息子。
スペイン王国国王。ネーデルランドと南イタリアの支配を引き継ぐ。

スペイン王国とハプルブルグ家の関わり

イタリア戦争

15世紀後半、ハプスブルク家はイタリアでフランスと対立し、長期にわたる戦争を展開しましたが、最終的にスペインが南イタリアを支配下に置くことに成功しました。

当時フランスは、北イタリア地区にある自由都市群とシチリア王国を支配する野望を持ち、ミラノ、フィレンツェに攻め込み支配を開始しました。

神聖ローマ帝国とスペイン王国はローマ教皇を取り込み、このフランスの動きに対抗。戦争は、マクシミリアン1世、カール5世、フェリペ2世まで引き継がれました。この戦争は、フランスがイタリアの支配から手を引くという形で16世紀中ごろに終わりました。

ハプスブルク家の家訓

ハプスブルク家の家訓「戦争は他の国にさせよ!汝は婚姻せよ」は、戦争よりも婚姻を通じた平和的な領土拡大を優先する戦略を示しています。

まとめ

スペイン=オーストリアのハプスブルク家の例を通して、絶対王政の構造とその影響を探りました。
彼らは戦略的な婚姻と軍事力を駆使してヨーロッパにおける支配を拡大しましたが、18世紀後半には産業革命と資本主義の台頭により、新たな社会変動が起こります。これにより、市民層の力が増し、絶対王政の終焉へとつながっていきました。

ハプスブルグ家に思いを馳せたい観光地 / ウィーン

ウィーンは、中世ヨーロッパの雰囲気を色濃く残す観光都市です。今回、ハプスブルク家について学習したので、行きたいと思うようになりました。

私が行ってみたいと考える場所は、
シェーンブルン宮殿
ウィーン美術史博物館
シュテファン大聖堂

この三か所です。中世・近世ヨーロッパの建物と、16世紀ごろ描かれた絵画に触れてみたいと思います。

シュテファン大聖堂

ヨーロッパの歴史を学習しつつ、それを実感できる観光地に行ってみます。そうすると、さらに学習意欲が高まることを期待しながら。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。これからも、歴史と観光の両方とも楽しみたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!