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「情報の『偏食者』」=「エコーチェンバー(echo chamber)の住民」の思考と行動について –− 洞窟を出て地球各地に拡散した現生人類が陥ろうとしている「認知の『洞窟』」
今年実施された東京都知事選挙、衆議院議員選挙、アメリカ合衆国大統領選挙、兵庫県知事選挙の経過や結果について、どうしてもスッキリと納得ができないままだ。そこで、政治、社会、メディアなどさまざまな面から各メディアや専門家の分析や見解を読んでみた。なかにはハッとさせられる切り口の提示もあったが、大半はそれぞれ特徴的だった現象を追っているだけのものばかりで、包括的にきちんと同意できる論評にはまだ出会っていない。
そうしたなかでなんとなくうすぼんやりと考え始めたことを備忘録として記しておきたい。もちろん専門分野でもなく、さらに結論でさえなく、単なるメモ書きに過ぎないが。
インターネットという「ポケットに入るようになった『世界』」の「魔術」
グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg)が改良、考案し、実用化した活版印刷術の普及は、中世ヨーロッパにおけるもっとも影響力の大きな印刷革命であり、「メディア革命」であった。15世紀以降ヨーロッパで普及した各言語訳の小型の聖書は、「『神』の言葉がポケットに入るようになった」と言われ、宗教改革、そしてその後の三十年戦争、ウエストファリア条約につながり、国民国家体制など近代ヨーロッパの国際関係を大きく変え、さらに世界の社会、政治にまで根源的な変貌をもたらすことになった。
こうした歴史的事実にならい、特にスマートフォンの急速な普及によって進行中の現代の「メディア革命」を乱暴に形容してみると、「『世界』がポケットに入るようになった」ということになるのではなかろうか。
現生人類は、グーテンベルクの印刷革命の後、ベルの発明した電信技術など、さらにはラジオやテレビなど放送技術、さらにはインターネットなどさまざまな通信技術、科学技術を発展させ、今やキーをクリックするだけで、あらゆる情報が即座に検索できるようになっている。まさしく人類が長年夢に描いてきたすばらしく便利な「未来」がすでに実現しているということになる。
私たち現生人類の祖先は、野獣におびえ、洞窟に深く潜んで身を隠してきたが、プロメテウスの火を手に入れ、家族や社会の相互扶助という知恵で「社会的動物」となり、我々の共通のふるさとであるアフリカを出て、地球全域に移動し、繁殖している。洞窟に隠れる心配もなくなり、「万物の霊長」として地球上に勝手に「君臨」し、地球環境を決定的に破壊する唯一の「害獣」にまでなっている。
しかしそうして現生人類が実現した「未来」はいかなるものなのであろうか。
西洋の近代がつくった新聞やテレビ、ラジオというマス・メディアは、さまざまな人たちの要望にこたえ、「さまざまな情報を可能な限りもりこんだメディア」であった。さらには「公平な立場でありたい」「中立性を守りたい」というタテマエで情報を伝えてきた。それが今のマス・メディアの共通の基盤であり基本的な了解事項であろう。
だが、X(Twitter)やYouTubeなどの「xyメディア/『ジャーナリズム』」は、とても便利な意見表明の手段ではあるが、マス・メディアのように「バランス」を考える必要性はなく、基本的には、主観的な、一方的な意見だけを伝える「パーソナル」・メディアであって、およそ「公器」と呼ぶことはできない。ときには無責任なデマゴーグが勝手に根拠のないフェイク「ニュース」や偽情報、誤情報などのデマゴギーまで拡散できる危険な道具であり、まさに両刃の剣でもある。
2024年は「人類滅亡のターニングポイント」?
近代以降のマス・メディア、新聞やラジオの印刷物、あるいはテレビなどの放送は、公正、公平、多様性への対応という倫理、義務、必要などから多種多様な情報を多数のさまざまな読者や聴取者、視聴者に送り届けてきた。それは、「自分の興味のない分野」や「自分とは異なる見解」までもが同時に「無理やり」提供されるということであり、パセリやピーマン、セロリまで「栄養価」を考えて盛り付けられる「情報の『定食』」でもあった。そのおかげで、我々も自然に「情報の『栄養バランス』」がとれるようになり、そうしたこともあって、ある程度の“media literacy”を身につけることもできていた。
しかし、SNSなどはそうではない。献立として提供される家庭料理や「定食」や「給食」ではなく、いわば好みの一品料理を自分で選んでチョイスするという方式である。よって、好き嫌い、さらには苦手な「野菜」や「魚」をほとんど食べない「偏食」を続けてもまったく問題はない。個性的な香辛料がひときわきいたエスニック料理でも、塩味たっぷりのスナック食品でも、甘さいっぱいの「お菓子」ばかりでも、お気に入りの「特化された情報の『一品料理』」を選んで食べ続けていくことができるしくみだ。
そうした「情報の『一品料理』」は、「未来のレストラン」でロボットたちが自動でつくっている。「情報」の「検索」の際、無言のロボットが「盗聴、監視」し続けていることなどほとんど意識することはない。自分と似た意見や思考の人を「フォロー」し、「いいね」などのレスポンスを繰り返す
ことで個人に最適化された「アルゴリズム」がつくられ、その結果として同じような考え方や価値観をもつ人たちばかりとつながるようになることにもおよそ気がつかない。
そんないびつな「レストラン」にいることさえわからぬまま、似た意見や思想をもった人々の集まるSNSなどの中での「コミュニケーション」が繰り返されることに快適さを感じ、自分の意見や思想が同質な仲間たちに肯定されることで、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込んでしまう。「キーをクリックした」というわずかな行動を「自分が選択したのだ」と強く信じ込み、さらに深い沼にはまり込んでしまうことにもほとんど無自覚だ。
今年の選挙で何度もハッ!とさせられた多くの「事件」は、我々がこれまで想像だにしなかった「情報の『偏食』者」たち、つまりインターネットの「検索」で「上位」に提示される短い動画や文章などの「情報」を信頼し、その「情報」を行動指針とする人たちがつくり出していたということにだんだん気がついてきた。そうした状況をつくりだしてしまった有権者たち、「情報の『偏食』者」たちを「エコーチェンバー(現象)の住民たち」と呼びたい。そうした人たちは今なお「エコーチェンバー現象」の張本人であることにもほとんど目を向けようとはしていない。
21世紀の「(自主的)洗脳」と「(自発的)動員」は、SNSという実に便利で「快適」なメディアによって、「悪しき副産物/毒物」としてつくられてしまったのではなかろうか。「文明」の進化、技術の進歩は、思わぬ人類の退化を招いてしまったということにもなる。人類が特に近代のさまざまな
たたかいのなかで獲得してきた人権、自由、平和、民主といったかけがえのない共有の財産も現在進行形で「エコーチェンバーの住民」たちによって破壊されようとしている。
とんでもない「エコーチェンバー現象」や「フィルターバブル」で、フェイク、誤情報の泥沼にはまりこみ、奇怪なウソをいとも簡単に信じ込んでしまう人が大勢出てきてしまったことがさまざまな選挙結果の形で明確に可視化さたのが2024年であり、それはもしかしたら人類の大きな悲劇の始まりであるのかもしれない。彼らのもう一つの顕著な特徴は、むしろ積極的に投票所に足を運ぶ有権者であるという点である。それも「自信」、否、「(根拠のない/いかがわしい『根拠』に基づく)確信」をもって。それがたとえいびつな情報によるものであったとしても。
公職選挙法(あるいは自民党)に形式的に従い、選挙運動期間中については特に形ばかりの「公正」「中立」を標榜し、「選挙を報道しない」この国のマス・メディアも同罪だ。在阪商業放送の「ワイドショー」などは、特定の政治的傾向を帯びたSNSとほとんど同じ機能を果たしていると言ってもいいのではなかろうか。
新自由主義ゴリゴリの小泉純一郎政権(2001-06)などは、広告代理店が「B層」と名付けた有権者たちのとりこみをはかって、「ワイドショー」とスポーツ新聞に対する工作を強化した。SNSの動画や短文の主張のみしか見聞きしない「無文字社会の住民たち」の「情報の『偏食』」による「偏向」
「(自主的)洗脳」「(従前の経験則による)予測不能性」は、そうした有権者が「進んで」投票した今年の東京都知事選挙(「石丸(伸二)現象」「有権者の前から姿をくらませた小池百合子の当選」「蓮舫候補が3位」)、衆議院議員選挙(「国民民主党の議席増」「参政党、保守党などの各3議席獲得」)、合衆国大統領選挙でのトランプの再選、そして兵庫県知事選挙での斎藤元彦再選などの結果として明確な形でたち現れてきた。
現生人類は、大脳が発達し、他の動物にはできない「想像」をすることができるようになった。想像はさまざまな学問や芸術、そして信仰、理想、理念を生み出してきた。その一方で、頑迷な「想像」への拘泥は、さまざまな紛争や暴力、虐殺、戦争ももたらしてきた。今、パレスティナやウクライナで起きていることは、つくられた「集団的『記憶』」によるものだ。
できるだけ早く「エコーチェンバーの住民たち」を、近代から連続する現代の現生人類の世界に引き戻さねばならない。まさに「カルト」からの救出と同様たいへんな、かなり根気のいる作業であることだけは間違いない。
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