梶井基次郎は、びいどろを口に入れて最大限の享楽を感じたと『檸檬』の作中でインプレッションしています。曰く『あのびいどろの味ほど幽かすかな涼しい味があるものか。』
梶井基次郎個人の追体験なのか、それとも、精密に組み立てられた「文学装置」の一機構なのか、小説という「虚構」の中では知る由がありません。
時折朝方の淡い夢のように浮かんでは消える、梶井基次郎「檸檬」についてフォトエッセイを書いてみたいと思います。
さて、毎週毎週いくらか聖書を読まざるをえない生活が、ここ10年以上奇跡的に継続しているのですが、時折なにげなく意識に浮かぶ紀元前後あたりの人々の営みに我ながら意外な思いがします。これをある人は「聖霊」の働きと呼びます。
はて?梶井基次郎の『檸檬』の中には、表面的にみれば、聖書と響き合うような感覚は想い当たりません。隣人愛から遠く離れた一若者が、ただただ己の嗜好にのめりこんでいるだけなんですから!
ところでわたしは、「サマリアの女」にいつも心打たれます。ヨハネによる福音書・4章に該当します。灼熱の午前中にサマリアの女が、日毎に水くみに井戸へ通います。そこで見知らぬ男に声をかけられます。
その当時のサマリヤ人の生活スタイルは、ユダヤ人の道徳観念からは許しがたいものだった。つまり、一人の女が複数の男と関係を持つからなのです。
だから、誰も進んで外に出ようとしない時分を見計らい、人目をはばかり水を汲んでいたのです。
梶井基次郎のような友達をみなさんは必要とされているでしょうか?
この世を「幸せに」生き抜くための「ツール」として、「アート」を活用する人々にはまったく無縁な人だったように思えます。
一方、「檸檬」の主人公たる孤独な男は、そばに一人いてもどっちでも良いような静かな存在です。
これは、知らぬうちにはまり込む文学の罠のようなものでしょう。
「檸檬」の主人公は、肺の病が引き起こす発熱を恐れています。一方彼の伝記も死因は肺結核とされています。さて、びいどろの味を振り返ってみましょう。
『あのびいどろの味ほど幽かすかな涼しい味があるものか。』
一方、サマリヤの女は、キリスト・イエスに水を与えます。そして…
「灼熱と静謐で冷たいもの、また聖なるもの。」
私の共鳴の核心はまさにここです。サマリヤの女は救済されました。一方、梶井基次郎がいかなる男であったとしても、彼がいわゆる「かわいそうな」男であったことに間違いないように思えます。
わたしは、率直に女が欲するところを明らかにするこの1節に深く感動を覚えます。あたかも聖霊の働きのごとき美しく無駄のない告白です。
少なくとも「檸檬」に私は、”救済への渇望”を繰り返し繰り返し感じ取ります。
そして、救済という恩寵は、自ら実現するものではなく、渇望のもとに降りてくる事象だと思います。梶井基次郎が、いや檸檬の主人公の立ち位置がやや畏れ深いものとして私の心の底に静まっているような気がします。
未読の方にはなんのことかわからない話ですが、敢えてくどくどと、作品を引用しません。ぜひ青空文庫やyoutubeで俳優の朗読をぜひ楽しんでください。