自分の人生を生きているか

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映画[GATTACA]を視聴した。(こういう画像は勝手に使ってもよいものか…)ネタバレ注意だが、感想を述べたい。

舞台は映画制作時(1990年代後半)からみた近未来。なので、突っ込みどころというか違和感はあるが、当時の未来像と今の生活のギャップを比べるという意味ではとても面白い。そこでは遺伝子科学が発達し、身体的精神的な障害が発生する確率や学習能力・身体能力などが受精卵の時点で判断・操作できるというものだ。そして宇宙開発も盛んであった。ロケットがポンポン打ち上げられていた。これらは現代よりまだ先を見ていると思う。一方で情報社会・コンピュータの進化は現実が予想を上回ったようだ。ブレードランナーのような近未来的な建物とディストピアというような世界観だったのに、掃除は人力なんかい、と突っ込みたくなった。

肝心の映画の内容についてだが、GATTACAの宇宙飛行士になるという夢を持ちながら、遺伝子により体が弱く寿命も短い「不適合者」であると判断されたヴィンセントが、完璧な遺伝子を持ちながら周りの期待を重荷に感じ銀メダルまでしか取れず、事故()により歩けなくなったジェロームになりきってGATTACAの宇宙飛行士になることを目指す物語である。

まさに正反対の境遇の二人であるが、ジェロームはヴィンセントを見下すことなく、自らの境遇に立ち向かって夢へと進んでいくヴィンセントに「夢を分けてもらった」、と言っていて良い関係だと思った。ヴィンセントの懸命な姿から夢に向かって真っすぐ突き進む姿勢を学べたのはジェロームだけでなく、映画の観客はみな生きるモチベーションをもらえたのではないかと思う。とても良い映画だった。

ラストシーンではムネアツな展開が待っている。全社員の血液検査であんなにガバガバでええんかいとか思っていたけど腑に落ちた。ネットでの考察だが、ジェロームの銀メダルが炎によって金色に輝く、というものを読み、震えた。

最後に、カットされたラストシーンでは、アインシュタインやホーキングなど数々の偉人たちが障害を持っていたことに触れ、遺伝子ですべてを決定する社会では彼らは生まれてこなかっただろう、遺伝子ですべてを決めてしまう社会になってもよいのかという問題提起で終えている。私はこれについて、遺伝子を用いた命の選択はありだと思う。なぜなら、GATTACAの世界では上記の偉人たちは生まれなかっただろうが、逆に現実で存在しない偉人も誕生したであろうと考えられるからだ。生まれた人の中から優秀な人間に成長するのは確率的な事象であり、優秀な遺伝子を持つ集団からのほうがその確率が高いと思われる。さらに人間社会において競争は絶えることなく、優秀な遺伝子を選べるようになったとしても必ずその中で競争は起こり、さらに優秀な人は必ず生まれるはずである。偉人の中に障害を持っていた人が多いのも事実であるが、障害を持っていない人のほうが多いことも事実である。つまり私が言いたいのは、優秀になるかどうかに障害はあまり関係なく、だからこそ不要な障害は避けられる社会になってもよいのではないかと思う。

このnoteでいろいろなことを述べて煩雑な内容になってしまったが、言いたいことは詰め込めたので自己満足はしている。

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