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匿名と半匿名とペンネームと顕名

 ホッブズは『市民論』の中で人間社会は自然状態では「万人の万人に対する闘争」状態にあるという仮説を唱えたが、今のtwitterは正にそのような有様であって、六道輪廻の修羅界も斯くやという血で血を洗う戦争が日々繰り返されている。

 私はペンネームで生きている。
 郵便物の8割は蝉川名義で届くし、十年ぶりに合った友人に本名で呼ばれて却って面食らったほどである。かつて妹尾河童はペンネームでの生活の割合が本名を著しく超えていることを理由に裁判所へ訴え出て、本名の方をペンネームへ合わせて変えてしまったそうであるが、私はまだそこまでには至っていない。

 web上に在る人たちは、匿名と、継続性に紐づけされた半匿名と、私のようなペンネームと、顕名とが入り交じっている。顕名の人からは「匿名の人はその正体を詳らかにしていないから狡い」という人もいるし、特に気にしていないような人もいる。現実世界のロールから離れて異なるペルソナで発言したい人もいるだろうから、今の渾然とした状態を、私は嫌いではない。

 しかし、時に「半匿名で発言していた人のヴェールがある日を境に剝がされる」という場面に出くわすことがある。
 その瞬間に、半匿名で為されていた様々な発言に、それまで紐づけられていなかった多くの属性が連携され、そこから新しい、これまでに感じていなかった諸々のイメージを避けがたく抱かされる。

 特定の事件について述べているのではないが、これは興味深い現象だな、と思う。同時に、本人が名乗る場合ではなく、別人によってそれが明らかにされたとき、これはある種の暴露であって、”アウティング”にも似た一種の威力を持つだろうな、とも思う。

 人生の一回性はどこまでも冷厳であり、残酷である。
 異なるペルソナをどう扱えばいいのだろうかと、ふと考えることがある。

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