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信仰と宗教とキャラクター

ここでのキャラクターという語は、架空(とされる)の人物を指すもの、といった程度で用いたい。特に、ドラえもんだとかシャーロックホームズだとか、小説なり漫画なりの登場人物などを主に想定している。

ゲームについて色々と考え始めた当時から当然、ガチャはその問題意識の中で少なくない割合を占めていた訳であって、そのガチャにおいて中心的であるキャラクターについても同様であった。現在の筆者の立場としては、キャラクターを特別視するような見方を採っていない。アイテムの一種である、という見方を採用しており、ゲームを商品として見る分にはこれで不足しないのだが、キャラクターそれ自体を掘り下げる見方ではない。商品としてゲームを眺める視点には、キャラクターをキャラクターとして見る必要性は薄い。全くない、といっても過言でない。

商品として見るにはともかく、キャラクターとプレイヤーとの関係というのどのようなものなのか。これは、一方的な関係だといえる。そもそも、物語というのが受け手に対して一方的なものにならざるを得ないものであるから、そうした物語に付随したキャラクターもまた同様であるのは、当然といえば当然ではある。

この、一方的に受け身である関係というのは、有名人と一般人との関係と比較できる。相手はこちらを知っているのに対して、相手はそうではない、といった認知の非対称性を以てして、一方的な関係とできる。この関係が成立するのであれば、その悪行によって、あるいは善行によって有名であるのかは問われない。
キャラクターも、そうした有名人に含められる。実際に生命活動をしているかどうか、という違いはあるが、現在は生命活動を維持している有名人がそれを停止したとしても、少なくともしばらくの間は有名人で居続けるだろうし、教科書に載るような水準にあるのであれば、死後も有名人であり続ける。生命活動を維持しているかどうも、また関係ない。
さらに、有名「人」といっても、人でなくとも務まる。猫とか化け狐とか永田町の妖怪とか、人格があるとされるならば何でも良いのだ。
やや外れた話題になるが、一時的な有名人の類がしばしば一瞬にして忘れ去られてしまうのも、関係が一方的なものであるが故だ。見たいと思われなくなれば、途端に唯一の接点が失われる。

有名「人」の筆頭に、神を挙げられる。同じ読みが可能なので、有名「神」だとか呼んでみても悪くはなさそうだが、非常に面倒になるので、以降では有名であるならば猫も杓子もひっくるめて、「有名人」で統一して述べたいと思う。

神というととても胡散臭いし、世の中にはそうした存在を認めない無神論者も居る。それに、神にも色々ある。神が居ないなどということは有り得ないし、一神教の立場からすると、「色々」な神がいるというのもまた噴飯ものなのだろう。しかし、仮にそれら立場にあったとしても、神の存在を理解する、あるいはどのようなものであるのか、ということを想像することはできるはずだ。つまり、いつもどこかにいて我々を見ていて、呼びかけたりするとたまに応答があったり、たまに何か試練や奇跡を通じた示唆的な存在感を発揮する、といった具合である。神という存在を想像することは不可能ではない。これを土台として、それを認めるか認めないか、という立場の選択が可能である。

果たして、神は我々を見ているのだろうか。これを積極的に否定するとすれば、それは無神論の立場であり、積極的な肯定は有神論のそれとなるはずだ。大抵の人はこうしたかっちりとした認識ではなく、自身の都合と状況に神を合わせているのだろう。宗教的な意味での神はともかく、宗教の範囲を超えて全知全能の神が存在する、という発想は時代錯誤も良いところだ。そこら辺の川や石や葉っぱと同等に、神がいる、とは決していえない。キャラクターもそうした存在である。キャラクターも神のようなものだ。

いつもどこかにいて我々を見ていて、呼びかけたりするとたまに応答があったり、たまに何か試練や奇跡を通じた示唆的な存在感を発揮する、という先程述べた典型的な神は実在しない。これは人間の内面で完結する、いわば霊感であって、神それ自体が確固として実在。なんとなく暗闇が怖い、薄暗くじめじめとした場所は不気味だ、といった感覚に近い。こうした感覚には強弱があれど、基本的には全ての人間に備わるものだろう。信仰と呼んで良い。神は、そうした感覚を統合し、何とか神、と名付けられた瞬間に登場する。各種の悪事を働く悪霊の類もここに含めるとする。さらに、こうした聖霊なり悪霊なりといった人格的な存在は、キャラ設定を誰かが与えることで具体性を増す。このキャラ設定の付与というのは、当然キャラクター自身が獲得するものではなく、他人によって与えられるものだ。

明確な差を認められるいは、何かしらの手順なり作法といったものが制定されているかどうか、である。貢物は○○を何個が正しく、××してから△△するのが正しい作法である、などが定まった場合だ。キャラクターが独りでにこうした作法なり手順を考えつく訳がないのだから、考えた人間と、正統であると定めた人間が背後にいるのは明らかだ。きちんと埋葬されなかった先祖の霊、といった存在を想像し、恐れるのは人間としておかしなことではない。ただ、その対処法として、○○を備えるだとか、備える数は△個、ただし状況を踏まえて間違えた数を備えると逆に祟られる、××をすると良い。ファブリーズでの除霊は例え有効に思えても認めない、原理は説明出来ないが、ともかくしきたりから外れるので祟りがある、といった掟の存在は明らかに人造のもので、偽装されて現れた人間と人間との関係である。こうなってくると、もはや信仰には留まらず、宗教である。宗教にまでなると、関係が逆転する。つまり、一方的な関係の一つであることに変わりはないが、我々が相手を一方的に見ているのではなく、相手がこちらを一方的に見ているのである。これは直ちに権力と結びつく。尤も、一方的であるからこそ権力である。トートロジーだ。こちらが相手を一方的に見ている場合には、対象がこちらの気に喰わないようになれば見ないことが、言い換えれば捨てることが容易い。対して、相手からの一方的な視線から隠れるのは難しい。

キャラクターが属するのは宗教か信仰かというと、宗教にまで至る物は極めて少ないか、皆無のはずだ。宗教みたいな人はいるだろが、それは個々の狂信者であって、何かしらの束ねる主体を欠いている。これに近いのは、恐らく民間信仰だろう。キャラクターがゆるキャラになってたり看板になって奉られたりすることが多い、というのもこうした親和性に理由を求められるのだろう。

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