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ゲームの上手さについて

 前回消化できない部分を兼ねて、ゲームのうまさをどう考えるか、という話です。
 というのも『ピクセル』では、ゲームが上手いという事が評価されないという現実をごまかすために地球の命運を賭けましたが、地球の命運とまではいかずに何らかの利益にしても、ゲームで決着をつけるという事はあまりないでしょう。そのため、現実でゲームが上手い事はどんなものなのか、という事を考えます。
 というのも、『ピクセル』はゲームをモデルにしたバカ騒ぎであるのみならず、ゲーム以外に取り得のない主人公が救済される話でもあるためです。

 ゲームが上手い事が評価されるというのは、それを見るか評価する存在(≒人間)が居てこその話です。いくらゲームが上手いとしても、その人の存在を誰も知らなかったとすると、いないのと同じようなものです。
 つまりゲームの上手下手というのは、どれほどの人間がどの程度の評価をするかという事になります。この視点を個々人の人間の視点ではなく、全体のおおよそという使い方をする限りでは、世間的なイメージと言い換えてもいいでしょう。
 世間的なものに限らず、イメージというのは厄介なもので、現実と解離したイメージを多くの人に抱かれている事も多くありますし、イメージを持つだけの情報量を持っていない、つまりそもそもの存在自体を知らないという事も起こり得ます。
 イメージを持つだけの情報量を持たないというのは、こうです。仮に筆者が「フラットウッズ・モンスターについてどう思いますか?」と街中で聞いて回ってみたとしても、「そもそもフラットウッズ・モンスターて何よ?」というのが多くの反応でしょう。これがイメージ以前の問題です。
 

 ゲームがイメージできない程に我々の存在に馴染みがない、という事はないでしょう。となると、どういうイメージなのかが問題です。
 個々人のイメージでは具体的ですが、全体としてどの程度のイメージを持たれているかは別問題です。
 映画やゲームには商品としての一面が確実に存在しますから、基本的にはより多くの人(≒観客やプレイヤー)が集まる事が利益になります。
 このようなマクロな視点に立った場合の、大数が持つジャンルとしてのゲームや映画のテーマへのイメージ、あるいは登場する役者が影響力を持ちます。
 『ピクセル』でのイメージはどうでしょうか。前述の通り、ゲームを題材にしている事と同様に、ゲームの腕以外に取り得が無いような主人公を扱っている作品です。ゲームのイメージはさておき、ゲームのうまい人間のイメージというのが、主人公に現れていると筆者は考えます。ステレオタイプともいえるでしょう。多少は改善というべきか、イメージの向上はなされているでしょうが、大多数のゲーマーに対するイメージが主人公の姿や性格に反映されていると考えます。繰り返しますがここで重要なのは、イメージが現実を正しく(≒誠実に)反映しているかどうかは、また別問題であるという事です。

 そのようなイメージについてあれこれ言う事は幽霊について語るようなものだという批判もあるでしょうが、このようなイメージは個々人の内面に確実に存在すると筆者は考えます。幻覚や空目、思い込みの類だとは考えないという事です。
 という訳で本題の、ゲームが上手いという事をどう評価するのか、という話を進めます。
 

 現実でのゲームのスキルは多くの場合、自己満足の世界でしょう。何かの役に立つからやるというような動機ではなく、ただ単にやっていて楽しいから、クリアしたいから自然とうまくなった、というのが殆どでしょう。
 『ピクセル』での主人公もこのパターンでしょう。前回にもこのような趣旨の事を書きましたが、ただ単に楽しい事を続けていても、その対象が何であるかでは評価が大きく変わってきます。
 この判断の基準はいくつかあるでしょう。わかりやすくかつ、多くの人が共有している価値観のひとつはというと、金になるかどうかでしょう。つまり、いくら上達したとしても一銭にもならないから価値がない、という判断の仕方です。
 他にも、個々人の持つ価値観、道徳のようなものもあるでしょう。このような価値観や道徳のようなものはイメージと同様に、想定されるものの実態を反映しているかどうかは別問題です。そのようなものは珍しくないでしょう。例えば、ゲームをすると頭が悪くなるだとか、変な脳波が出るだとか、そのようなものです。確かにゲームをして頭が悪くなる人が居ない訳ではないでしょうが、頭が悪い人がゲームをしているだけかもしれません。ゲームが影響しているか、あるいはどの程度影響しているかは別の問題です。
 このようなイメージはゲームのみならず、良いイメージか悪いイメージかを問わず、何事にも現れるでしょう。

 最後に、地球の命運を背負う以外に、どうすればゲームの腕以外に取り得の無い主人公は救われるのかを考えてみましょう。
 まず思い浮かぶのが、気にしないという方法。気にしないというのは、周りがどう思おうと知らんわ、という自己完結した態度です。気にしなくても、服装などに無頓着であるなどとは違い、全く他人に迷惑がかかる事でもありません。
 映画にはならなさそうですが、現実での対処としては有りでしょう。気にしないといっても、やせ我慢ではなく、本当に全く気にならない程度にまで気にしない必要があるでしょう。
 これがいわばプレイヤー個々人の内面を操作するという方法であるとすると、外面を操作する方法もあります。
 

 外面を操作するというのは、イメージを操作するという事になります。イメージを操作するというのは、ゲームが上手い人間は凄い、という価値観を多くの人が持つようにする事です。このような価値観を基に『ピクセル』を作ったとしたら、おそらく我々が良く目にする、あるいはイメージする典型的なハリウッド映画に近いものになるのではないでしょうか。
  『ピクセル』では、外面としては地球の命運を担う選ばれた人間として、内面はそれに影響されて、あるいは地球を救ったという事によって克服されます。自信を付けたという意味では、世界を救うという外部が直接の原因といえます。ただ、内面の変化が直接の原因でしょう。つまり、別に地球の命運を賭けなくても、自信を持てるに足りる出来事が起こる、もしくは別に誰にも評価されないととしてもいいやと考えられるようになるだけでもいいのです。

 結論としては、ゲームに限らず、何かに秀でている事が評価されるかどうか、というのは全くの別問題であり、結び付けて考えるべき問題ではないという事です。これは他人に対しても同様に、自分自身についても当てはめて考えるべきでしょう。
 例えば、プレイしているゲーム中で、ゲームの腕に比例したピラミッド型のヒエラルキーがあると思う、などです。確かに、腕の立つプレイヤーを上から並べて見ればピラミッド型にはなるでしょうが、その位置がプレイヤーの人間としての評価として適切であるかどうかとは、関係ありません。人格と能力とが、好ましく一致するというのは幻想です。
 
 最後に、このような見方を『ピクセル』に当てはめて、ストーリーを想像してみましょう。いくらでも想像する事が可能でしょう。例えば、地球を救う事は変わらずに、地球の命運という重荷にキリキリする話だとか、そのようなものです。
 もちろん、ゲーマーが自身を取り戻す話よりこちらが上だ、という主張でもありません。好き好みの問題であって、良い悪いという上下の関係ではありません。

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