映画視聴録 『ピクセル』

 『ピクセル』という映画がある。クリスマス向きの映画だと思う。ストーリーはかなりめちゃくちゃなのだが、ゲームで世界を救うという事を出汁にして話を進めたい。
 ストーリーとしてはめちゃくちゃといったが、そもそも「ゲームで世界を救う」という事自体がめちゃくちゃで、もはやどこから突っ込めばいいのかわからないという意見もあるだろうが大丈夫。地球は救われます。

 別に地球でなくとも、何かを賭けた戦い、あるいは負けると何かを失う決闘というのは、少なくとも映画やドラマでの物語の作り方としては、珍しい話ではない。
 ただその決闘は、ナイフやら拳銃ではなくゲームの勝敗で決め、さらに相手は姿も見せない宇宙人だ。相手が見えないのはまあいいとしても、問題なのは地球を救う人間の方だ。地球を救うどころか、地球に巣食う人間に見える。
 しょうもない洒落はともかく、一般的なオタクのステレオタイプの例に漏れず、映画故にあまりに汚らしく視界に入るだけで吐き気を催すような事は無いにせよ、あまり好感を抱けないような見た目をしている。
 
 現実では一般的に、ゲームがうまいという事はあまり評価されない。仮にここに何らかのゲームがあるとして、世界で一番そのゲームが上手い人間が筆者だと仮定しよう。かなり乱暴な計算になるが、筆者のゲームの腕は80億に1人といえる。
 これが商売の才能で80億に1人の才能となると、多分ゲームの才能で80億に1人である事によって得られる収入とでは、ゼロの数が何十桁も違ってくるだろう。
 ただ、希少価値というか、存在の珍しさ自体を比べた場合、ゲームの世界一と商才の世界一とは同等だ。この差をして、あまりゲームが評価されていないと判断している。

 『ピクセル』のストーリーでは、ゲームの才能に圧倒的な価値が付与される。ネットに詳しい読者は「将棋星人」を思い浮かべずにはいられないだろう。
 詳しくは検索してもらえると嬉しいのだが、簡単に説明しておく。
 地球に侵略してきた将棋星人と、地球人代表が地球の命運をかけて将棋を指す。その時に地球人代表として送り込みたいのは誰よ、というネタだ。元のネタとしての完成度が高かったため、現在では様々に改変されたり、違った用法がなされる事が多いが、元の意味としてはおおよそ上記のような趣旨だ。

 地球の命運に限らず、何らかの利益を代表する決闘を担うのがゲーム、というのがそもそもフィクションだ。そのフィクションを補強するため、エイリアンが現れているに過ぎない。フィクションというよりは、リアリティがないというのが正確なところだろう。地球の命運がかかっている、という補強をしなければ、ゲームでの決闘はお笑いとして映りかねない。
 このような決闘を担うのがゲームではなく麻雀であるとすれば、まだリアリティがある。ヤクザ映画や漫画などの決着に、「パックマン」でケリを付ける、というのは笑ってしまわないだろうか。
 ここでは麻雀を例を挙げたが、麻雀はそもそも複数人で遊ぶ事を想定されたゲームだ。対してパックマン、ないしコンピューターゲームの多く―特に『ピクセル』に登場するようなコンピューターゲームの黎明期に登場したもの―は、1人用のものが多い。つまり、何が起きているのかを他者(≒プレイヤー以外)に見せる事を考えられていない。
 『ピクセル』はこの問題を解決するにあたり、現実空間でゲームを再現するという手法を使っている。VRやARなどを想像してもらうと良いだろう。これは同時に、既存のアクションシーンを援用していると考える事が出来よう。
 つまり、画としてはカーアクションや銃撃戦(ガンアクション)が起きているに過ぎないのだが、我々視聴者としては、確かに文脈とキャラクターもこの理解を助けているのだが、画面の中で起きている事はゲームであると十分に認識できている。
    その点、最後に行われる「ドンキーコング」は特殊である。これは他のアクションを援用しているというよりかは、ドンキーコングそのものである。東京フレンドパークに似ているという見方もできそうだが、別に東京フレンドパークに似ているだけなら晴れた日曜日の公園でも、似たような光景を目にする事ができると思う。
 冗談はさておき、ドンキーコングが特殊なのはカーアクションやガンアクションの助けを借りている他のアクションシーンと比較して、ドンキーコングそのものを映しているためだ。落ちてくる障害物をひたすら避けて、一番上にたどり着く事がドンキーコングというゲームのルールだ。
 登場人物は画面の中にいるマリオのように動くし、ドンキーがいて障害物も放ってくるし、さらわれた人質もちゃんといる。
 

 カーアクションやガンアクションについても、元としたゲームを全く無視した内容になっている訳ではないものの、そのまま画面に映すにはあまりに地味であろう。
 ドンキーコングも同様だ。そのまま映すとしたら地味であろう。確かに、派手な演出が付け加えられている事は事実だ。そのような演出というのは、宇宙人とのゲームバトル全てに言える事だ。光のエフェクトが目立つなどがその例だ。
 ただ、ドンキーコングが現われるのは劇の最後、ラスボスの位置にある。そこに行きつくまでの文脈が作用しているため、見た目以上に盛り上がる。
 こうして地球は救われたのだった。うーん、クリスマス向きの映画か自信が無くなってきた。

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