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ゲーム文化と商品

いわゆるソーシャルゲームないしはスマホゲーム(以降はスマホゲームに統一して用いたいと思う)のいわゆるガチャのようなシステム(これも以降は単にガチャとする)が備え付けられていることが多い。そのプレイヤーらからは、度々、ガチャは悪い文化、などと蔑む声が聞こえるが、その呪詛は専ら運が悪いときにしか聞かれることがない。このことは、そうした発言のなされるのが、ガチャそのものが真に問題であるというよりかは、価値があるか目的としていたものが当たらなかったことが問題であるということのなりよりの証拠である。本当に悪いものと思っているならば、関わらなければいいのだから。追ってくるとかいうことは無いのだから、こちらから出向かわなければ良い。関わらずにいることが出来ない、という類のもので決してない。

ともかく、ここで扱いたいのはガチャの中毒者についてではなく、コンピューターゲームと文化との関係である。ガチャは悪い文化、という語の発声主体ではなく、その語それ自体に焦点を当てたい、ということになる。この語
が示唆することは、ガチャが文化に含まれている、という意識の反映である。尤も、積極的にそう思っているという訳でもないのだろうが。花火が上がったら玉屋だとか中村屋だとか、やっぱりようかんは虎屋だね、だとか。文面に意味があるというよりかは、そうした語を特定の場面に発するということに意味のある、つまり決まり文句に近いのだろう。どの程度の妥当性があるのかはともかく、ゲーム文化なるものがあるとして、ガチャがそこに含まれるのかどうか、という切り口を継続したい。

そもそも、ガチャというのが何のためにあるのか。これは商品のためにあるのであって、ゲームではない。いきなりこんなことをいっても混乱させるだけであると思うが、こういうことだ。つまり、コンピューターゲームというのはゲームであると同時に、あるいはゲームである以上に商品である。つまり、ゲーム文化があるとして、果たしてそれはゲームのうち商品としての一面が属するもの―ゲーム経済だとかゲーム業界だとか呼べるだろうか―を含むのか、という話だ。文化と商業との両者が重なる部分があるのは確かだ。しかし、同じものでもない。

特に経済的な活動、つまり消費や生産の場面において、文化の様式が含まれるのは確かだ。消費や生産の全てが経済活動とは言い切れないが、現代社会においては、それらの相当程度が経済活動であるといって過言でない。経済活動の唯一かつ最大の目的は、より多くの利益である。それを突き詰めていくと、そもそも人間の生活が成り立たなくなるので、その外側から様々な制約がかけられている…ということになっている。利益を突き詰めていくと現れるのは、公害などの環境や自然の破壊、汚染であり、これには人間それ自身が含まれる。自然保護や労働環境を改善するだとかよりも、それらから絞れるだけ絞った方が利益的だ。少なくとも短期的にはそうだ。

ギャンブルの類などはこの典型である。徹底的に絞る。これだけだ。当然、ガチャの類もギャンブルの類である。この場合、ガチャのような仕組みは消費者のみならず、ゲームそのものをも搾取する。
こうした理由から、ガチャは文化ではないと線引きしたいのだが、現代はあらゆるものが値付けされ、それが価値の唯一の基準であると、容易く認識されてしまう。このために、かくもガチャの類が「文化」として跳梁しているのだろう。仮に、文化がそのような外部を徹底的に搾取するようなものであるならば、その文化を規範としていた集団ごと、とうの昔に絶えているに違いない。

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