見出し画像

プレイを見せるゲーム ゲーム動画編

 e-Sportsの次はゲーム配信です。今回は、今までと比べて真面目な話です。今までが真面目ではない、と言うわけではもちろんありませんけども。
 ゲーム配信と言うと、昨今話題になっている「Vtuber」の活動もゲーム配信と領域の重なる部分もあるでしょう。
 ゲーム配信と言うのを拡大して解釈すると、「ゲームのプレイを他人に見せる行為」といえるでしょう。
 さらに解釈を広げると、「何らかの行為を他人に見せる行為」事自体が、エンターテイメントとして成立する(≒興行)と理解できるでしょう。

 ここではとりあえずそのような行為のうち、ゲームが関係するものに限って話を進めて行きます。
 ゲーム配信は視聴者の前に現れるタイミングにより、つまり時間軸によって二種類に分けられます。一つはライブ、つまりプレイそのものが視聴者の前に現れるもの。他方はプレイが検閲されて後、視聴者の前に現れるものです。
 以降、前者を「ライブ」とし、後者を「検閲」と呼びます。後者はさらに、ゲーム配信と言うよりかは、「プレイ動画」や「検証動画」と言った呼ばれ方をする事も多いでしょう。
 検閲と言うと仰々しいから、これを編集と言い換えてもいいでしょう。編集というのはつまり、プレイした動画を、視聴者がより面白いと感じるような画に加工するという事です。逆に、面白くない部分を削る事もあるでしょう。
 その編集をする人物は誰でもいい。ゲームを実際にプレイした人物でもいいし、別の人物でもいい。視聴者でも良い訳です。

 ただこの視聴者が編集者であると言うのは、後に詳しく扱いますが、特殊な場合です。視聴者が編集者になる場合には、ゲーム配信の二つの区分―つまりライブであるか閲覧されたものであるか―は解体されます。
 例えば、ライブの最中に奇想天外な出来事が起き、その面白い場面を視聴者が切り取ったとしましょう。これの具体例を挙げると、「Twitch」には「clip」と呼ばれる仕組みがあります。変に横文字を混在させるのが気になるので、以降ではそれぞれ「ツイッチ」と「クリップ」というカタカナ表記を使用します。
 ツイッチはライブと検閲の両者に対応しています。どういう事かと言うと、ライブが終わった後にもライブの内容が、一定期間はプレイ動画をビデオとして保存する事が可能です。
 クリップと言うのは、そうしたライブやビデオから10~60秒の範囲を、本編から独立した動画として切り抜く機能です。わかりやすく言うと、面白シーンを本編から独立させられる、と言う事です。そうして独立した映像は、今挙げた「ゲーム動画」の分類には当てはまらない、と言う事です。

 ゲーム配信は、多くの場合、必ずしも一挙手一投足が面白い瞬間である訳ではありません。場合によっては退屈、時としては苦痛である事もあるでしょう。
 苦痛である場合と言うのは例えば、配信者がしょうもない味方殺しに遭遇してしまったり、ひどい妨害を受け続けるなどの状況にある場合を想定しています。
 ゲーム配信者のスタンスや技量によっては、このようなシーンも爆笑抱腹、となるのかも知れませんが、一般的には観ていてあまり楽しいシーンではないでしょう。ルールに違反する行為の被害者になってしまった、と言い換えて良いでしょう。
 もちろん、ゲームによっても、そのような迷惑行為を目にする頻度が異なるでしょう。これについては、以前に取り扱った内容ですので、そちらをご覧下さい。

 さて、ここでわかる事は、視聴者が編集者である場合、つまりクリップのような機能では、ゲーム配信が持つ二種類のフォーマットとは別に分類できるという事です。
 少し振り返りましょう。ゲーム配信自体の分類は、編集の有無によって二つに分けられます。ライブと検閲です。
 加えてこの両者とは別に、前述のように、検閲の主体が視聴者の場合もある、と言う事です。このように、視聴者が編集者である場合を指して「編集視聴者」という語を用いたいと思います。ツイッチでのクリップのような機能を行使する視聴者が相当します。
 ただ、ここでは編集視聴者は扱いません。ライブと検閲に話を絞って扱いたいと思います。編集視聴者を取り上げない理由については、この存在はゲーム配信の主体に対して外野であるというのが理由です。言い換えると、視聴者が編集した動画やシーンは、他人のものを加工したものであるという点において、便利な複製品でしかないという評価をしたためです。

 話を戻します。
ゲーム配信の本質は、「ゲームのプレイを他人に見せる」と言う点にあるとしましたが、ゲームを見せるという行為のうちのライブと検閲とが、同様の構造であるとは必ずしも言えないでしょう。まず、検閲のある動画から取り上げましょう。
 検閲のあるゲームは、ゲームそれ自体を対象にした動画を構成する事とは親和性が高いでしょう。例えば、ゲームにまつわる「都市伝説」を検証する動画です。
 都市伝説と言うのは例えば、絶対に倒せないとされている敵であるにも関わらず、実は255回攻撃を当てると倒せる、というようなものです。『ポケットモンスター』シリーズの、特に初期のものにまつわる「都市伝説」を耳にした事のある読者は少なくないのではないでしょうか。
 そのような都市伝説を検証するようなものをライブで配信する場合には、下準備に時間がかかる、あるいはライブでは面白さを演出できないなどの理由もあるでしょうが、「配信者の個性を活かした面白さ」が求められないという点に於いて、ゲームそれ自体が主役に近いと言えるでしょう。
 ライブも取り上げましょう。ライブのようなゲーム配信では、配信者と視聴者がコミュニケーションを取る場として作用している事が珍しくありません。
 つまり、ゲームそれだけを視聴者が楽しむというよりかは、ゲームと配信者の存在とを不可分の存在として楽しむような傾向があるという事です。
 もちろん、検閲のあるゲーム配信では配信者(プレイヤー)の個性が全く反映されない、という事もないでしょう。ゲームのプレイ動画と呼ばれるようなもの(検閲のあるゲーム)にも、投稿者の個性が発揮されるものは珍しくありません。

 ゲームの楽しみを厳密に考えた場合に、配信者の存在は、ゲームの周縁部に位置します。筆者の言葉を使うと、広義の娯楽性に位置するという事になります。
 つまり、ゲーム以外の楽しみが「ゲーム配信」という場に同居している事が珍しくない、と言う事です。ゲーム以外の楽しみというのは、配信者のリアクションやトークなどです。
 配信者のいない動画、例えばゲームの都市伝説を検証するような動画で、字幕や事前の説明が状況説明の全てである場合を想像してみましょう。
 このような場合は、ゲーム本来の楽しみに近いという事ができるでしょう。とは言え、ゲーム本来の楽しみと全く同じではない事も確かでしょう。ゲーム本来の楽しみ、と言うのは後述しますが、狭義の娯楽性の事を指しています。
 全く同じではないというのは、例えば下準備に10時間かかるような検証動画があるとしましょう。そして仮に、検証動画それ自体の尺は10分だとしましょう。視聴者は動画の投稿者の費やした時間よりもはるかに少ない時間(10分)で、ゲームの内容を追体験できます。動画の撮影に限らず、編集と言うのも大変に労力を必要とする作業です。
 そのような意味でゲームのプレイ動画は、動画の構成そのものが、ツイッチでのクリップ機能を拡張したような構造であると言えるでしょう。もちろん、主語を入れ替えて、クリップはゲームのプレイ動画のような構造を持つ、と言ってもいいでしょう。

 つまり、必ずしも見ていて楽しい瞬間ばかりではないゲームのプレイのうち、面白い瞬間だけを切り取ったものが、他方においてはクリップのような形として、他方においてはプレイ動画として現れている、と言う見方です。
 このような場合は、配信者や投稿者の個性が発揮される場合とは違い、このようにゲームの一部を切り取る事で面白さを演出しているという点で、ゲームそのものの面白さに近いと言えるでしょう。

 つまり、検閲のあるゲームもまた二つに分類できるという事になります。ゲームの配信者や投稿者の個性が発揮されるものと、ゲームの一部を切り抜いたものです。このような「編集」を他者が行うものがツイッチでのクリップのようなもの、主体が一致する場合は基本的に、プレイ動画のような形態を取るでしょう。
 対してライブで、出演者や配信者の個性が発揮されないような動画、例えば「検証動画」のようなものをライブで行う事は、主流でないでしょう。主流でないだけのみならず、出演者や配信者の個性から独立して存在する事は、ライブと言う形態を取る以上、難しいでしょう。
 対して、動画の形態を問わず、配信者の個性が発揮される動画での視聴者は、配信者の個性や人格を通してゲームを楽しむ形を取ります。

 少し話題が逸れますが、この点からe-Sportsとゲーム配信とを比較してみましょう。この点からe-Sportsを考えると、e-Sportsでの視聴者はゲームそのものを楽しんでいる側面と、プレイヤーの個性を楽しんでいる面とが、両立していると言えるでしょう。
 ゲームそのものを楽しんでいる、と言うのはわかりやすいでしょう。視聴者が求めているのは、洗練された動きです。しかし同時に、そのような動きをできる人間は、限られる事が珍しくありません。この点を指して、プレイヤーの個性が現れているという事が可能でしょう。

 話を戻しましょう。
 ゲームのみを扱う場合でも、配信者やプレイヤーの個性を通してゲームを楽しむ場合でも、ゲームそれ自体の楽しみからはやや遠い、と言うのが筆者の意見です。
 ゲームそれ自体の楽しみ、と言うのを筆者の言葉で表すと「狭義の娯楽性」となります。これを簡潔に述べると、損得勘定の事です。効率良くアイテムを集めるか、あるいは相手を倒すかと言った思考や行為そのものと言い換えて良いでしょう。
 対して、ゲームそれ自体の楽しみからやや遠い、と言うのは「広義の娯楽性」となります。ゲームの楽しみのうち、狭義にないものは全てこちらに位置します。
 ゲームにまつわる都市伝説を検証するような動画は、よりゲームそのものの面白さに近いとしましたが、これも広義の娯楽性に属しています。都市伝説はゲームであるというよりかは、物語的であるとの判断からです。

 ゲームの楽しみからやや遠いと言うのは、ゲーム動画の視聴に際して、ゲームでの損得勘定が行われない点を指しています。
 つまり、ゲーム配信や動画を厳密なものの見方をした場合には、ゲームではないという事です。ゲームではないというと何なのかと言うと、会話の共通言語あるいはコミュニケーションツールとしてのゲームが存在しているのみであって、ゲームと向き合っている訳ではない。ゲームの存在が、触媒となっていると言い換えてもいいでしょう。
  
 ゲームが触媒になっているというのはつまり、何らかの行為を人に見せる、あるいはそのような行為を見るという枠組みにおいて、その対象が何であろうと成立するためです。もちろん個々人からしてみれば、ゲームである必要や、ゲームのうちの特定のタイトルである必要はあるでしょう。
 繰り返すようですが、これは特に厳密な見方をした場合の区分です。実際にゲームをプレイ、あるいはゲーム動画を視聴する際に、表に出てくる事は殆どないでしょう。

 このように、純粋にゲーム的な要素と厳密にはゲーム的ではない要素とは地続きであり、かつその境界は朧です。ゲーム配信にゲーム的である部分があるとするならば、配信で見たプレイングを自分のプレイングに持ち込む場合でしょう。
 そのような場合には、プレイングが参考になりさえすれば、他人の動画である必要は無いわけです。自分のプレイングを録画しておき、それを自分が後に見返す、と言う形を取っても良い。
 このような姿勢を視聴者が動画や配信に対して求めていてさらに、動画や配信にプレイヤーが参考にし得る要素が含まれている場合にのみ、狭義の娯楽性がゲーム配信に現れると言えるでしょう。

 さて結論はと言いますと、ゲームの配信はゲームを見せるという行為やゲームを取り囲むコミュニケーションが主体であって、ゲームそのものではない、と言う事です。
 このような見方は、繰り返すようですが、実際にゲームをプレイしている時やゲーム配信・動画を視聴している視聴者や配信者には、あまり関係のある話ではないでしょう。

https://twitter.com/osadas5 まで、質問などお気軽に。