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ゲームとサイレント映画

 実はわたくし最近サイレント映画をちまちまと見てまして、なんでかと言うとアマゾンで見れるから。


 サイレント映画は今の映画の多くと違い、登場人物はしゃべらない。サイレントとは言うが、音はする。BGMというか音楽は流れている。
 このサイレント映画は、トーキー、つまり今の映画と同様に登場人物がしゃべるような映画が現われると、サイレント映画は消えて行った。
 とまあ映画についてはさておき、サイレント映画の表現方法とゲームの表現方法とを考える。

 サイレント映画では多くの場合、映像の合間に字幕が挿入され、この字幕で登場人物がこう話した、「これからこうするつもりだ」などの状況説明がなされる。文字で物語を表現している。これはゲームでもよく見かける。登場人物にしゃべらせる場合もあるし、モノローグとして挿入される場合もある。どちらにせよ、文章とある程度の画像で状況を説明するというのは両者に共通している。
 映画の場合は画像というより映像だが、あまり情報量がある訳ではない。カラーでなく白黒であればなおさら、フィルムもそもそも劣化しているだろう。
 細部まで鮮明に見えて、映像に圧倒される感じであるというよりかは、ある程度想像力で補正して見ている。ゲームでも例えばドット絵など、何を示しているかプレイヤーが理解できればゲームの原理的には十分で、プレイしていて困る事はあまりない。キャラクターや障害物の細部まで鮮明に示されている必要は無い。
 細部は受け取り手の想像力によって補完される。この想像力は場合によっては、あるいは人によっては、鮮明で圧倒されるような映像や画像を見るよりも効果的であろう。想像力の投影先としての絵があり、鮮明な映像での受け取り手は文字通り受け身だが、想像力を投影する場合には働きかけの主体足り得る。想像力は隠されていたり欠けている部分に対して働く。
 
 他にも両者に共通しているのが音楽の使い方。

 ゲームの音楽というと様々あるが、特に状況の説明を助けるために音楽を使う時、両者の音楽は近い。今では挿入歌など凝ったものがあって普通だろうが、そこまで気合が入ってなくても良いし、最低限効果音があれば音楽と呼べる。
  状況の説明に用いられる音楽というのは、なんとなく暗い雰囲気を出したいのであればそのような音楽、明るい感じなど、場面場面に応じた音楽が用いられる。これは音楽が雰囲気を作るために設置されるが、音楽が雰囲気を作るようになる。悲しげな音楽は悲しくさせるし、楽しげな音楽は楽しくさせる。
 ゲームでも雰囲気、状況に応じて様々な音楽が流れる。差し迫った状況では差し迫った音楽が流れ、状況に余裕ができるとまた余裕のある音楽が流れる、といった具合。こういった音楽の使われ方は、ゲームでも映画でも大きな違いはなかろう。映画でもサイレントは役者が話すセリフがないため、音楽が音声に占める割合は大きい。これはゲーム、特にキャラクターの音声付きのセリフがなくテキストで表現されるゲームでも同様だ。
 
 映画、特にサイレントとゲームとの物語を展開させる方法はあまり遠くない。もちろん全てがそうであるという訳ではなく、例えばノベルゲームは映画等映像作品よりは出版物に近い。
  ただそのようなノベルゲームでも、画像が用いられる。映像を秒間30回なり10回なりの速さで流れて行く画像と考えれば、もちろん製作にかかる労力や技術という点では別物だろうが、大きく見れば区別する必要は無い。挿絵がある出版物もここ加えて良いだろう。映画の文字による状況の説明と映像の割合を反転させれば、挿絵のある出版物と似たような表現方法になる。ただそれが映画なのかと問われると、映画とは違う。
  
 ゲームも映画も情報量が格段に増えたため、本文の内容が適用されるのは昔のゲームや映画だ。現在のゲームや映画にはまた別の比較の方法がある。

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