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消したくない足跡をたどって

舞台で自分のシーンがすべて終わり、共演者と話しながら不意に鏡前に置いてある携帯をタッチした。LINEはいつも通知オフにしているからタッチしただけじゃ何も表示されないけど、通知オンにしているメッセージが珍しく携帯画面に表示された。しかも登録されていない電話番号からだった。

ん?と思いながら、余計に気になりメッセージの内容に目をやった。そこには慣れ親しんだ名前と共に「今日亡くなりました」という言葉が飛び込んできた。いつもなら電波が入らない劇場なのに、今日に限ってこういうメッセージはしっかり受け取る皮肉な電波だったらしい。

一緒に話していた隣にいる共演者かげちゃんにこの動揺は隠せなかった。

「え、ちょっと待って」

「どうしたん?」

「いや、、、めっちゃお世話になった人が今日亡くなったらしい」

「え?」

「うそやん、、、どうしよ」

あっという間にカーテンコールに向かう時間になった。舞台裏の暗さがその人とのエピソードを許可もなく頭の中ぎゅうぎゅうに思い出させた。溢れてくる。お客様の温かい拍手がまた泣けた。こうして舞台に立てていることに感謝すらしていた。

この日は元々オーディションのため早く劇場を出なきゃいけなくて、急いで帰る準備をしていたが、急いでいるそのスピードに心と現実が全くついていけず、机に手をついてしまった。そうなったらもう、顔は上げられない。現実も受け止められない。
状況を知らない女性楽屋の皆さまにほんとに迷惑をかけてしまったと思うくらい完全に取り乱していた。
この舞台を観に来るはずだったし、親が来るその3日後にこの方に会いにいくつもりだった。会う気でいたから、会えると思っていたから、電話もしなかった。

「なんで電話しなかったんだろ」

心の声が完全に涙声になって漏れていた。
奇しくもその時の舞台で、私は心の声を発する「心」役だった。

この方に関して取り乱したのはこれが初めてではない。さいたまネクスト・シアターという演劇集団にいた頃、その時もまた公演中か稽古中だった。共通の知人から電話がかかってきた。「小倉マスター、喉に癌が見つかって、もしかしたら声が出せなくなるかもしれない」という内容だった。
劇場の廊下で話し終え、平然を装って戻ってきたが、装いきれてなかったらしい。制作の方に「長内、大丈夫?」と聞かれる始末だった。私はこういう大切な人に関する突然の動揺は隠せないみたい。

でも今日はオーディションがある。「行かなきゃ」と口では言って、手は動かすものの震えて引き出しもうまく閉まらない。こういう時ってこんなにも手が震えるのかと客観視してる自分もいる。楽屋のみんなが心配してくれて、ティッシュまでくれて「いってらっしゃい」と優しく見送ってくれた。情けない。甘えられるみんなに完全に甘えてしまった。

オーディションに行って、平常心をなんとか保とうとしていた。子役の女の子が薄紫色のハートの折り紙を何度も見せては折り直したり、私にも折らせてくれた。全然ハートに折れなかった。こんな時にまさか「ハート」をもらえるなんてと、拭ったばかりの目と同じくらい心も潤った。何も関係ないたまたまの話だけどね。後日このオーディションに受かったのもたまたまの話なんだよね。

オーディションが終わってすぐに父親に連絡した。

「えー・・・会う予定でいたのに。そうか」

そうだよね。ほんとにそのつもりだったよ。だからまさかすぎて信じられない。親もこの方には何度か会っていた。

「今年は(亡くなった方が)多いなあ。引っ張られないように気ぃつけろよ」

と言われ、久しぶりの父との電話は短めに終わった。
2021年は多分一生忘れられないくらい変な年だ。

小倉さんとの出会いは大学3年生の夏。2010年。私は神戸に住んでいて、就活する友人たちを陰ながら応援しつつ、就活する気になれない私は友人の勧めで始めた芝居を、本気でやってみようかなとか考えている頃だった。
夏休みを利用して、一人で東京に行って「演劇day」と題し、3日間観劇する期間を作った。東京でしかやっていない芝居を観たかったんだと思う。

その最終日、初めて紀伊國屋サザンシアターに向かった。
着席したら隣の席のおじいさんが、

「舞台というものを初めて観るんですが、休憩とかあるのでしょうか?」

と聞いてきた。
上演時間を事前に確認していたので、

「多分あると思いますよ」

と答えた。そして休憩時間になり、

「もし良かったら何か飲み物飲みませんか?」

と言ってくれて「あ、はい。是非です」と答え、自販機の飲み物を飲みながら少しお話をした。

「なんで観にきたんですか?」

私「芝居の勉強をしてて、関西から観にきたんです」

「え、わざわざ関西から?!」

私「はい!」

「僕ね、関係者の方に連れられてきて、終演後に楽屋に行くんですけど一緒に行きますか?」

と言われた。ん?

この人は何者だ?見た目は髪もお髭も眉毛も真っ白でおしゃれなサマーハットを被っている素敵なおじいさんだった。確実に悪い人には見えないし、変な関係者にも見えなかったので「私も行っていいのなら是非」と答えた。
観劇後に楽屋に行くというのは父の関係で子供の時から当たり前にやってくる行事のような感覚だった。でも父の関係じゃない楽屋訪問は初めてだったし、舞台を観に来るのが初めてと言うおじいさんに対してまだ半信半疑だった。

終演後、本当にスタッフの方が迎えにきた。とんでもない関係者なのか?なんだかぞみぞみしながら楽屋に向かうと、出演者の男性陣が集まっていた。それはもう、演劇界の重鎮たちだった。まじか。そして皆さんかなりフレンドリーだった。「あ!ほんとに来てくれたー!しかもなんで女の子連れてるの!ナンパしたの?」すごく楽しそうに笑い合っていた。私はただただ笑っているしかなかった。
このおじいさん、まじで何者だ?疑問と興味がシーソーのようにぎっこんばったん押し寄せていた。

楽屋を出てからその方が「この後時間ありますか?」と言ってきて、ぎっこんばったんのスピードは緩やかになり、冷静に考え「神戸に帰るだけなので大丈夫です」と答えていた。
念のため親に電話する。

「劇場で隣の席やったおじいちゃんにご飯連れてってもらうから遅くなる」

「え?どういうこと?」

そりゃそうなる。小倉さんも電話に代わってくれて親と話してくれたっけな。とにかく説明して多少の不審は残ったろうけど了承してくれた。
小倉さんは新宿の天ぷら屋さん、つな八に連れて行ってくれた。そこで事情を聞いた。実はお店をやっていて、そこに舞台の関係者がみんなで誕生日を祝いに来て、それで舞台観に来てくださいよと言われて行ったんだと。
東大目指して三浪したことや国連にいた話などいろんなことを話してくれた。帰り際に「芝居しに上京するのでその時はまた会ってくださいね」と伝えて別れた。

私にとってこういう出会いは初めてじゃなかった。よくある話というか、人にすんなり理解されない不思議な出会いがどうやら多い方らしい。なので、変な違和感がない限り大丈夫だと感じている自分がいたりする。この時も確か友達に「え?大丈夫やったん?」とか言われたような気がする。でも私はご飯のお礼に何か送ったりして、上京してからの再会を願っていたと思う。

その半年後の2011年、春。蜷川幸雄主宰のさいたまネクスト・シアターという演劇集団に受かり、ほんとに上京することになった。ただ大学4年生だったため、東京にすぐには住めず、往復の日々があった。新宿のカプセルホテルに泊まったりしたけど、数回小倉さんの家に泊まらせてもらったこともある。東京にそんな知り合いが他に居なかったんだよね。奥さんとは死別していて、カールという名前のダックスフントが居た。目が覚めると、サラダとソーセージ付きの特製フレンチトーストの朝食も作ってくれた。

ご両親も心配するだろうからと会う日取りを決め、お店で一緒に会った。親は心配よりもお世話になってと感謝しながら、小倉さん特製のカレーを食べていた。

そしてその年の秋に東京に住むことになった。小倉さんが不動産屋さんを紹介してくださり、なんの不安もなく上京できたのはこの小倉さんが居たからと言っても過言ではない。今住んでいる家もお世話になったため、私は東京でその不動産屋さんしか知らない。

そして、さいたまネクスト・シアターに所属したことで、あの時楽屋で会った方たちと再会することができた。覚えてないかなと思ったけど聞いてみた。

「あの時、マスターの隣にいたのが私だったんです」

「おー覚えてる覚えてる!」

何かに挑戦し続けていると、こんなこともあるらしい。上京するかもわからなかった私を演劇の先輩たちは覚えてくれていた。不思議なこともあるもんだ。小倉さんにも「あの時以来に再会したらなんと覚えてくれてたんですー!」っていう話をした。

それから何度も小倉さんのお店に伺ったり、弟が東京で働き始めた時は3人で新宿のつな八に食べに行った。それが出会った時以来の同じお店で、しかもその当時と同じ席に案内されて弟に興奮しながら話したのを覚えている。その時にはもう声が出なくなっていて、喉に器具を当てて振動が音になることで会話ができていた。

愛犬のカールくんが亡くなり、広い部屋に住む必要がなくなったと言って、小倉さんが引っ越したお家に遊びに行った時も、私がパンを好きなのを知ってて大量にパンを買ってくれたり。いろんな記憶が鮮明ではないけど、楽しかった特別な時間というのは確実に刻まれている。声が出ている時に小倉さんが言ってくれたのは

「きみは僕の友達です。
歳は半世紀離れてるけど、こうして同じような感覚でお話ができるのは楽しいし嬉しいです」

昭和に憧れる平成生まれの私はそんな風に言ってもらい、宝石箱をもらったような気分だった。憧れから生まれる興味と好奇心による会話の宝石がこれからそこに詰められていくのかなぁって。

小倉さんとはそんな頻繁ではないけど、気持ちが豊かになる時間を定期的に過ごしていた。

母は留守電に入っている小倉さんの声を保存してあると前に言っていた。母に亡くなったことを連絡したら、父から聞いたのか「みたいね。会いに行く予定にしてたのに。お風呂が好きって言ってたから、お風呂の中で天井照らすライトみたいなのをプレゼントしたこととか色々思い出した。何日くらい経ってたのかな」

お葬式の日時の連絡が来た。通常なら翌日とかにあるのかもしれないけど、今回は家で一人でいつ亡くなったのか原因も検死をしてからじゃないとわからなかったため、通常より遅くなる形で連絡が来た。

その日程が公演中にも関わらず奇跡的に最後まで参列できる日時だった。参列させていただきたい旨を連絡すると「焼き場まで行きますか?」と聞かれて、「もしご迷惑でなければ行きたいです」と伝えた。

葬儀後は小倉さんのお店でお別れ会をするという。そのお店はなんと公演中の劇場から徒歩6分の場所だった。そんなことあるのか。近いから小倉さんにも舞台の案内を送り、親が観に来る日に小倉さんに会って、父はお店で小倉さん特製のカレーライスを食べる気でいた。その日が葬儀の日になるなんて。生きてるとこんなこともあるらしい。二度とあの辛めのカレーライスが食べられないことが、カレー好きの私には二度とサンタが来ない喪失感に似ている。

年末に祖父の百日法要があるため、実家に喪服を置いたままだった。数珠も鞄も一式置いている。そんな数ヶ月以内に誰かが亡くなるなんて思いもしない。服はとりあえず全身黒の服で行こう。あ、数珠がない。前に喪服を貸したことのある共演者のかげちゃん(蔭山ひろみ)が楽屋で隣だったため、聞いてみた。そしたら快く貸すと言ってくれた。しかも今年亡くなった最愛のおばあちゃんの数珠だと教えてくれた。そんな大切なものを貸してくれるなんて。温もりに感謝し、大事に包んで持っていった。

葬儀の当日、すべての段取りと連絡をしてくれた通称マダムに会い、亡くなった日と死因を聞いた。マダムは小倉さんのお店を引き継いでいる。1週間前に自転車に乗っている小倉さんに遭遇して手振り合って別れて、それから連絡しても返事がなく、

「でも最近のマスター返信遅くなかった?」

「遅かったです!」

「だよね!だからいつもの返信遅い感じかなーと思ったけど、あまりに連絡がないから、あれ?と思って合鍵で入ったら倒れてたの。多分トイレでうってなって、そのまま床に倒れて、倒れた時にこめかみのところが当たってそこだけ血が出ただけで、そこから動いたり苦しんだりしてないからそのままだと思う」

そうだったのか。ぽっくりってほんとにあるのか。

「突然のことにショックで泣いたけど、マスターずっとぽっくり逝きたいとかずっと言ってたから、ほんとにその通りになって最後までマスターらしい」

みたいなことをみんなが口々に言っていた。小倉さんの知り合いの方たちと久しぶりの再会だった。舞台を観に来てくれたけど面会できなくて会えてなかったり。2年ぶりかな会うのは。こんな感じで会いたくなかったけど。改めてこの方達に引き合わせてくれた小倉さんに感謝する日にもなった。

葬儀ではマダムが最初に挨拶し、声帯の手術をする前の小倉さんの声と歌声のCDを流してくれた。泣いた。いや、これは泣く。小倉さんの声を聴くのは7年ぶり?くらいだった。喉に機械を当てて振動で出す音でしか小倉さんの「言葉」を聞いていなかったから、10年前に出会った時のこととか懐かしくなった。

そういえば小倉さんは話すのが大好きだった。当たり前に出ていた自分の声で話している時が一番イキイキしていた。そんな姿も思い出して涙が止まらなかった。話せなくなってからは机を叩いて「嬉しい」を出したり、OKサインを指で作ったり、声よりもジェスチャーの方が多かったことも一緒に思い出した。

棺桶の中の小倉さんは別人だった。厚化粧以外のこの違和感はなんだろうと思ったら、口髭だった。チャームポイントの口髭が全くなくなっていた。逆に見たことない顔だったから笑った。
触れたくなって肩に手を当ててみたら、ひんやりした。その日会って話そうと思ってたことは書き切れなかったけど、手紙を小倉さんの肩にそっと乗せた。

次に焼き場へ。隣は並んでお経をあげている。反対の隣はキリスト教なのか英語が聞こえてくる。私たちはというと、ここに来そびれた人と葬儀屋さんを待っていた。これなんの時間だろうと笑い合った。「お別れを伸ばしてくれて、うちだけ笑ってて最後までさすがマスター」と小倉さんに言うみんな。名前も知らないみんなと笑い合った。多分15分くらいはそこにいたと思う。土曜だからか続々と来る。いや曜日なんて関係ないか。遂にその時が来て「またね〜バイバーイ」と手を振り、各々の笑顔で小倉さんに別れを告げた。

82歳のお骨は前日まで自転車に乗ってただけあって、さすがと思うほど綺麗に残っていた。手術した声帯の喉仏は立派な仏様の形をしていて、自分の声で楽しそうに話していた小倉さんをまた思い出した。
そのままみんなでお別れ会の場所の小倉さんのお店へ向かった。この日が昼公演だったらお葬式も途中までで、全く参加できなかったと思うと奇跡のような日だった。昨日でも明日でもなく、今日じゃないとだめだった。

久しぶりのお店で、久しぶり、というかこんなにちゃんと小倉さんの友人たちと喋ったのは初めてだった。このお店の2階では、先輩と何度か芝居の稽古をさせてもらったこともある。そんなお店での思い出も久しぶりに思い出せた。実はここからすぐのところで舞台をやっているということを皆さんに伝えたら、なんと観に行くと言ってくれた。その日と次の日の千秋楽にほんとに来てくださった。

みんなそれぞれの小倉さんとの出会いも聞き、「長内くんとお寿司行くぞ」とついこの間言ってたらしいこと、私がドラマに出てるのを写真撮って小倉さんに送ってくれていたこと、やっぱり出演は僕らも嬉しいと話してくれた。小倉さんとの出会い含めて、私はほんとに人に恵まれている。

入り時間のギリギリまでみんなと話し、劇場に向かうことにした。

お店からどうやって行くのか地図を出すと、やっぱり目と鼻の先だった。地図を頼りに歩いていると、「あ、ここ小倉さんの家に行くときに入ったパン屋さんだ」「ここのパンをたくさん買ってくれたなー」とか思い出した。ってことは小倉さんの家この近くなのかと思っていたら、前日に食べに行った焼肉屋さんがあった。

「え?ここ?ってっことはめっちゃ近くに小倉さんいたんだ」私が劇場入りした日はまだ生きていた。ゲネの日には亡くなっていた。こんな近くで。思わずそれまでの道を何度も何度も振り返りながら劇場に向かった。こんな近くに居たなんて、やっぱり信じられなかった。そんなこと思ってたら到着した。涙流して浸る時間も与えられないほど近かった。

かげちゃんに数珠を返した。「朝からおさちゃんがんばったな」と言ってくれた。ありがとう。公演は関係ない。知らせを聞いた次の日からどこかで何も考えないようにしていたのかもしれない。その証拠に葬儀中はたがが外れたように嗚咽だった。公演中は全くの平常心。そういう意味でも役って助けられるものなんだなと思った。素だと装いきれない動揺も、役があると隠せるらしい。公演が終わっても実感がなくて、私は血も涙もなくなってしまったのかと心配になるほどだった。

年が明けて、小倉さんの誕生日の次の日にお別れ会があった。と言っても飲食はないし、さらりと談話するだけの短い時間。それでも小倉さんと出会った人たちと、生前の小倉さんの話をするのが居心地よかった。マダムが小倉さんのノートを印刷して遺言のような言葉たちを貼ってくれていた。それを見て、そう言えば2人で天ぷら屋さんに行った時、お箸袋の裏に四字熟語を書いてもらったことを思い出した。
「確か子供はいつか親に恩返しするみたいな言葉なんですが皆さん聞いたことないですか?」
誰も知らなかった。
「ずっと手帳に挟んでたんですけど今あるかなあ〜どうしたっけな」

確実に捨てた覚えはなかったため、上京してからのすべての手帳をどこにしまったかを探すところから始まった。どこを探しても見当たらない。困った。実家に送りつけてもないし、自分の過去の痕跡を捨てるタイプでもないため捨ててはないはずだけど、ここまで出てこないと自信がなくなった。何度も見た場所はいい加減諦め、唯一見てなかった引き出しを開けてみた。すると約10冊分の手帳が眠っていた。その棚は演劇集団に所属してた時の戯曲を入れてるところだった。完璧な過去ゾーンにしっかり仕舞い込んだ当時の自分の心情を少しだけ撫でたくなった。

さて手帳を漁る。一体何年のに挟んでいたか。むしろ挟んでいただけだから、どこかにいってしまっている可能性もある。夢中で手帳を開いていった。途中、いつかの自分のストイックさが手帳から窺えて手が止まりそうになったが、今の人生の時も止まりそうな気がしたのでやめておいた。
自分の中での勝手なシーソーゲームのような葛藤を続けてたら、見覚えのある探し求めていた紙が出てきた。紙と言ってもお箸袋の端切れ。そこに小倉さんの字で「寸草春暉」と書いてあった。その横に忘れないように私が意味を書いていた。
2014年の手帳だった。そんな前のをまだ覚えてたってよっぽど印象に残ったんだろな。2010年に出会った時以来の天ぷら屋さんだったのかな。それとも2010年に書いてくれたのを毎年挟み直していた可能性もあるのが私の性格だった。真相はわからない。でも私の手元に残っている唯一の小倉さんの字だった。

多分「すんそうしゅんき」と聞いても漢字がわからなくて、食事の席で携帯をいじるのが好きじゃない私は「どんな字ですか?」って聞いたんだと思う。字を書かれても意味は全くわからなかった。でもその時聞いた意味はずっと頭にあった。「親の恩は大きすぎてなかなか返しきれないという意味の言葉だけど、それでもいつか恩返しする」という気持ちが込められた私のメモにも見えた。

なんだかあの時に受け取った宝石箱の中身を確認するような時間になった。もっともっと小倉さんとの宝石でいっぱいにしたかったんだと思う。一緒にご飯を食べる時間や、小倉さん特製の少し辛めのカレーをお願いしたり、近況を報告し合う会話とか、もっともっと一緒に過ごしたかった。
小倉さんは会うといつも「良い人はできましたか?」と聞いてくれる。あんまり会話の最初でそういう話をすることなんてないからいつも新鮮だったし、小倉さんには正直に話していた。だから、いつか「良い人」ができたら会ってほしかった。

人生そんなうまくいくわけじゃない。

小倉さんとは唯一無二の稀な出会い方をし、私にとって大切な「友達」だった。今まで身近な人には話していたけど、こうして文章にしたことはなかった。小倉さんとの奇跡のような出会いは、私の生きてきた時間の中で確実に必要だった足跡だから、書き記してみたかった。

その足跡は誰も踏んでいない新雪の中にあるようで、また降り積もっては踏み歩くから長い長い痕跡になった。

終わる出会いもあれば、こうして何年も続く出会いがあり、一度途絶えてもまた出会い直すこともある。どんな繋がり方だとしても、人との蓄積が今の自分というまっさらな新雪になっているのかもしれない。誰も踏み歩いていないところを無意識に歩いていたりする。生き方に正解がないように、いつだって目の前には足跡がない。それが「今」なんだろうね。私はこれからも新雪の道を歩き続けたいし、時にはダイブしたいし、ぎゅっとして投げたりもしたい。

新雪は見てるだけでも気持ちがいい。なんか気持ちがいいと思える自分でもいたいし、気持ちのいい時間を過ごしたいし、あ、清々しかった童心のような気持ちでいたいのかもしれない。

小倉さん、長い長い言葉になったけど、小倉さんのこと思い出してたらそんなところに行き着きました。「ちょっと最後はよくわからないですね」って言われそうだね。
そちらではカールくんと愛する奥様に再会できてますか?私は会ってお話したいことがまだまだあります。これからね、いろんなことを文章にしていこうと思うから、気が向いたら、うん、気が向いたらでいいからさ、たまには覗きに来てよ。私の近況とかまた新しい足跡を記してくからさ。直接話せない代わりに、いっぱい書いてくよ。小倉さんが話せなくなった時、筆談してくれたみたいに私も書いてくね。

ほんとは会って言いたかったけど、
また会えると思って
今まで言わなかったこと言うね。


あの日、隣に座った私に声をかけてくれて
本当にありがとう。

じゃなかったら出会えなかった人や経験が
たくさんあります。
滅多にない面白い出会い方をさせてくれて
ありがとうございます。
そちらではあの時みたいに
いっぱいお喋りできてるかな?
私も混ざりたいけど、
ここから言葉にして送ることにします。
そうやって小倉さんがくれた「宝石箱」の中を
いっぱいにしてくよ。
小倉さん、まったね〜!!!


読んでいただき、ありがとうございます! 子どもの頃の「発見の冒険」みたいなのを 文章の中だけは自由に大切にしたくて、 名前をひらがな表記にしました。 サポートしていただけると とっても励みになります。