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自分が嫌いなインターネット上の文化3選とその理由

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出自粛要請などでインターネットに触れる時間は確実に増えている。インターネットといえば自分が知りたい情報にすぐアクセスできることが魅力である…のにそのアクセスする過程で見たくも聞きたくもない情報に往々にして遭遇することがある。

この記事ではそんなインターネット上の嫌いな文化を個人的に3つに厳選してその理由を自分なりに考察してみようと思う。

1vtuberもどきが出てくるYouTubeの広告

まずはトップ画面でも使用した例のこいつらである。見ただけで吐き気がする。気持ち悪い養子に加えてぬるぬるした動き、そして気持ちの悪い声。そして飽きることなく脱毛などダイエットなど自分の気持ち悪い経験を交えながら宣い続けるその様子は見たもの全員を不快のどん底へ突き落す。

調べてみるとこういうvtuberもどきが出演する広告はいくつもあり、女性版もあるのだが上記同様気持ちが悪い。有名なkentyとかいうやつに関してはいつまで社会人1年目をやっているのだ、そもそも社会人にまでなってなぜそのような気持ちが悪い活動をしているのかというつっこみをした人も多いだろ言う。ちなみに最近はデブな男が出る広告をよく見かける。

なぜ彼らは一様に気持ち悪いのか。以下考察である。

まずもってYouTubeの広告というそもそも疎まれる立場であるのに、それを自覚せず不快さを増幅させているのが原因である。テレビのcmと違い、YouTubeの広告は目的の動画を見るためには5秒間は避けては通れない。彼らはその5秒間で奇抜さをいかんなく発揮し、5秒経過後も広告を視聴させる狙いなのかもしれないが、その5秒という一瞬の間にあれほどの不快感を植え付けるのだから全くの逆効果である。

次に彼らの容姿の問題である。キズナアイだとかそういった流行るような容姿とは程遠いvtuberである彼ら。特権であるvirtual(仮想)をなぜあそこまで徹底的に放棄したのかという疑問は尽きることがない。あれならまだあの容姿のまま生身の人間がしゃべったほうがましである。そして一番不快なのが彼らが何の恥ずかしさもなくむしろ自信満々な様子でしゃべっていることである。自身の気持ち悪さに全く気付いていないのである。現実世界ではあの気持ち悪さを全開にして話しかけてくるやつなどいないので、免疫を持たない私たちはあの気持ち悪さにとてつもない不快感を感じるのである。

2,インスタで文字だけの投稿

ここ最近よく見かける現象である。インスタグラムとは本来写真を投稿する機能を前面に押し出したサービスである。それを逆手にとって得意げになっているのかわからないが、インスタのアプリを開いて下のほうにある検索というところをタップしてほしい。ざっとスクロールしてみるとその中にいくつか以下のような投稿が紛れているはずだ。

(勉強系)

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(恋愛系)

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好きなんです、気づいてください

(その他)

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等々挙げればきりがない。

まずこれらの投稿に関して共通しているのは見出しとなる1枚目でインパクトのある文言を並べておきながら、そのくせそのあとに書いてある内容が薄っぺらいのである。勉強系であれば、毎朝単語帳を読んでいたなど至極当たり前のことが書き連ねられていることも頻繁にある。恋愛系に関しては大抵安っぽいポエムが書かれているだけである。その他系に至ってはただ他人の発言を切り取って投稿しているだけである。にもかかわらずこれらの投稿はどや顔で投稿している様子が目に浮かぶほど上から目線でかっこつけた文言を並べているのである。さらに気持ち悪いのはこうした投稿にたくさんのいいねがついていることだ。無論どんな投稿にいいねを付けるのかは自由だが、そのいいねがこのような気持ち悪い投稿を助長していることを覚悟してほしい。勉強系に関してはこんなのにいいねしている時点で成績が伸びることはないし、いいねして勉強に取り組んでいるように自分を言い聞かせているだけだと断言していい。

3、乾杯の様子をストーリーに挙げる

この3つ目に関してはあまり賛同が得られないかもしれない。ストーリーとは言わずと知れたインスタグラムの機能の一つである。このストーリーに日常生活の一部など実に様々な投稿がされている。だがその中で乾杯の様子をストーリーに投稿するのはどうしても受け入れられない。

インスタ映えという言葉があるように飲食物をストーリーにあげる行為は何らおかしくない。ただ乾杯に関しては事情が違う。乾杯をストーリーにあげるということは大抵そこで飲んでいるカクテルをアピールしたいわけではなく、乾杯しているという行為自体をアピールしたいのだ。アピールというのはつまり第三者に向けての発信という意味合いだが、このアピールという要素が加わるだけで一気に乾杯という行為の中に違和感が生じる。乾杯という行為自体は本来その場で集まる人たちの中で完結する、というのも乾杯の目的が打ち上げ等そのグループ内で共有されているからだ。が、乾杯の様子をストーリーにあげるとなると、まずそういった人たちは乾杯の前から第三者へのアピールということを考えてスマートフォンを構えるのである。ひどいときにはその乾杯に際して出席者全員がスマートフォンを構えて撮りあっているという時もある。皆が第三者の視点を意識して乾杯しているのである。こうなってしまえば、打ち上げなどといったグループ内で共通となっている乾杯の目的は薄れ、第三者の視点を取り入れる前提の乾杯となるのである。この気持ち悪さ、別の例を挙げれば少しわかっていただけるかもしれない。小学校の時の給食を思い出してほしい。おそらく食べる前に「いただきます」という言葉を皆でそろえて言っていたはずだ。「いただきます」と唱える行為には食や生産者、調理者への感謝の意味合いがあると思われるが、その場でいただきますと言いながらスマートフォンを回している人がいたらどう思うだろうか。「いただきます」と唱える行為には本来全く関係ない画面の向こうの第三者の視点が意識されたものとなるのである。乾杯だって本来打ち上げであるとか再会だとか何かを祝う意味合いをもって行われるはずだ。そのグループ内で共有され、完結されるべき行為に第三者の視点を取り入れることは気持ち悪い、この感覚が分かってくれる人が少しでもいれば幸いである。

まとめ

ぜひ上記のような文化を広めるのは自粛してほしいものだ。


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