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Vol.15「浄土真宗」

日本最大の仏教宗派

浄土真宗の宗祖・親鸞は、浄土宗開祖・法然の弟子です。

親鸞が法然の教えを否定して新しい宗派を作ったと勘違いされがちですが、実際には心から尊敬しており、親鸞自身、新しい宗派を開こうと考えたわけではなかったそうです。

浄土真宗を宗派として全国的に発展させたのは、本願寺第8世の蓮如です。
蓮如は越前吉崎(福井県)を拠点として布教したため、今でも北陸地方には浄土真宗の寺院が多くあります。
蓮如と言えば、浄土真宗の葬儀で拝読される『白骨の章(本願寺派は御文章、大谷派は御文)』が有名です。

浄土真宗は「真宗教団連合」に加盟しているもので十派に分流していますが、浄土真宗本願寺派(西)と真宗大谷派(東)は別格です。

それはどうしてでしょうか?

なぜならこの二派は、親鸞聖人の血統を受け継ぐからです。

親鸞聖人の血脈

親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに)は、親鸞の遺骸を京都東山の大谷に納めました。墓所となる「大谷廟堂(びょうどう)」を建立し、親鸞の曾孫・覚如(かくにょ)が大谷廟堂を寺院化。本願寺を成立し、浄土真宗の実質的な開祖になります。
これ以降、本願寺門主は血縁による世襲制になり、現在でも西本願寺、東本願寺の門主は親鸞や蓮如の子孫が継いでいます。

最澄、空海、法然など、教科書に登場する僧侶の中で、公に子孫がいるのは親鸞や蓮如をはじめとする浄土真宗の僧侶しかいません。

煩悩を捨てるべき仏教の戒律により、肉食や妻帯は浄土真宗を除く仏教では明治時代になるまで固く禁じられていました。しかし親鸞は戒律を破り、公然と肉を食べて妻をめとり、阿弥陀仏の救済を信じました。

日本最大の仏教宗派である浄土真宗。
なぜここまで庶民に受け入れられたのでしょうか。

親鸞、法然との出会い

親鸞は9歳で両親を亡くし、出家して比叡山にのぼります。
20年間ひたすら修行に励みましたが、自力修行の限界を感じ、法然のもとへ足を運びます。親鸞は法然の専修念仏の教えに感銘を受け、入門。この時親鸞29歳、法然は69歳。親鸞は法然の説く教えをとことんまで極めようとします。

ところが6年後、比叡山や興福寺の働きかけにより朝廷が専修念仏停止令を出し、法然は四国へ、親鸞は越後へ流されます。
法然と親鸞。これが今生の別れとなりました。

非僧非俗、愚禿親鸞

越後(新潟県)に流罪となった親鸞は僧籍を剥奪され、僧侶でもない、仏教の求道者であるため俗人でもない「非僧非俗(ひそうひぞく)」を宣言します。

親鸞は越後で恵信尼(えんしに)と結婚します。当時は僧侶の結婚など考えられない時代でした。しかし親鸞は、「結婚する者が救われないのなら、民衆は誰ひとり救われない」と主張したのです。

流罪を許されたあとも妻子を伴って関東で布教活動を行い、京都へ戻ったあとは『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などの著作活動に励みます。弟子も増え、「門徒(もんと)」と呼ばれる信者も一万人を超えましたが、非僧非俗をつらぬく親鸞には教団を設立する意思はありませんでした。

1262年11月28日(新暦では翌年1月16日)、親鸞は覚信尼や門弟たちが見守るなか、往生の素懐(そかい)を遂げられました。90歳でした。

往生の素懐
仏教を信じる者が、阿弥陀如来の極楽浄土に往生することを常日頃から願っていること。その願いを「遂げる」=成就するということ。

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他力本願(たりきほんがん)

親鸞は法然の「専修念仏」の教えに感銘を受けます。法然はただ「念仏を称えるだけでよい」と教えました。しかし、法然の弟子たちの間でその解釈をめぐり意見が分かれます。

「一度の念仏で往生できる」
「念仏の回数は多いほどよい」
「念仏以外の修行もしたほうがよい」

親鸞は、「念仏を称えるにあたってはまず、信心がもっとも大切である」と考えました。阿弥陀仏の救いを疑いなく信じ、すべてを委ねる心こそが「信心」という考えでした。

法然亡き後も親鸞は専修念仏の探求を続け、「他力本願」の念仏にいたります。他力本願と言うと、他人の力をあてにして運に任せて自分では何もしないという意味でとらえられがちです。
しかし、本来の意味はまったく違います。

仏教でいう「他力」とは、
他人の力ではなく、仏様の力のことです。そして「本願」とは、悩み苦しむすべての人々を救いたいという阿弥陀仏の願いのことです。

自らの修行によって功徳を積み、その行いによって悟りを開く自力の考え方に対して、阿弥陀仏の本願で救済されるというのが他力本願です。他力本願は法然の説ですが、これをさらに深めた親鸞の教えは絶対他力と呼ばれます。

悪人正機説(あくにんしょうきせつ)

善人なほもつて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。

善人でさえ極楽浄土に往生できるのだから、
悪人が往生できるのはいうまでもない。

親鸞の言葉をおさめた『歎異抄』の有名な一節です。これも「悪い人ほど往生できる」と誤解されやすく、浄土真宗の中でも長く封印されていました。

親鸞の言う「善人」とは、「自力」の人のこと。「自力で修行に励む善人は、阿弥陀仏の救いを信じきる信仰心に欠ける人」と親鸞は説きます。
これに対して「悪人とは、自分はどんな修行をしてもやり遂げる能力のないダメ人間と思っている人」修行ができない悪人が救われるのだから、自力を捨てて他力(阿弥陀仏)に任せる気になれば、誰でも極楽浄土に往生できると説きました。

どんな小さな悪も見逃さない阿弥陀仏の眼からすれば、すべての人が悪人です。すべての人の救済こそ、阿弥陀仏の本願なのです。

肉食妻帯(にくじきさいたい)

殺生(せっしょう)である肉食、女犯(にょぼん)である妻帯は、本来、僧が守るべき戒律によって禁じられています。明治時代以前は、戒律を破った僧は僧籍を剥奪されるなどの罰を受けました。

親鸞は比叡山での修行中、修行に励めば励むほど煩悩が湧き上がり、悩みました。そんな親鸞の心に響いたのが、「たとえ戒律が守れなくても阿弥陀仏は救ってくれる」と言う、法然の言葉でした。
親鸞は肉食妻帯を自ら続けることで、身をもって阿弥陀仏の救いを示したのかも知れません。

浄土真宗の葬儀

浄土真宗は「即身成仏」とおっしゃる方がいますが、それは間違いです。即身成仏とは密教の言葉で、生きているこの身のまま仏に成る=わかりやすく言えば、”ミイラ”のこと。

浄土真宗は「往生即成仏」、
浄土へ往き生まれたならば、すぐに仏になれると教えます。亡くなると、すぐに阿弥陀仏に極楽浄土に導かれるので、死出の旅路はなく、死に装束を着せる必要はありません。
魔除けのための守り刀もいりません。
死は穢(けが)れではないので清め塩はいりません。
また、葬儀式は極楽浄土での再会を誓う場なので、永遠に別れを告げる意味の「告別式」という言葉は使いません。
浄土真宗に戒律はないので授戒はなく、「戒名」とは言わず「法名(ほうみょう)」と言います。

浄土真宗の葬儀で、お経をあげる対象は、ご遺体ではなくご本尊です。
ご本尊は阿弥陀如来ですが、西と東で違います。

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写真のように阿弥陀如来の後光の本数が、
西(本願寺派)は8本、東(大谷派)は6本です。

納棺尊号

葬儀のお別れの時、お寺様が書かれた納棺尊号(お寺によって呼び方は異なります)を棺の中に納めます(棺の蓋の裏に貼ることもあります)。
中には「南無阿弥陀仏」の名号が書かれています。これには、二つの意味があります。

一つ目は、死者と共に柩に納めることで阿弥陀仏の力により浄土に往けるというもの。

もう一つは、浄土真宗の葬儀の根本に関わります。浄土真宗の葬儀が他の宗派と異なるのは、「死者への供養として行われるのではない」ということ。
死者は阿弥陀仏の力によって成仏するので、冥福を祈る必要はありません。
お経は死者にあげているのではなく、ご本尊に向かってあげているのです。ところが、霊柩車に柩を納める時や、火葬場での読経の時にはご本尊はありません。

いや、ご本尊はあります。
柩の中に、仏様と共にあります。
死者ではなく、死者と共にある「南無阿弥陀仏」の名号に対して拝んでいるのです。
それが、納棺尊号です。

浄土真宗の焼香と線香

焼香の回数も、西と東で違います。
どちらも額には押しいただかずに、西(本願寺派)は1回、東(大谷派)は2回焼香をします。

線香は西も東も一本の線香を香炉の大きさに折り、火が左になるように、立てずに寝かせて供えます。

真宗十派

冒頭にもありますが、浄土真宗には「真宗教団連合」に加盟する10の分派があります。

浄土真宗本願寺派…お西さん
浄土真宗の中でも最大の信者数を誇ります。
本山は、龍谷山本願寺(西本願寺)です。

本願寺派以外は「真宗〇〇派」と称されます。

真宗大谷派…お東さん
本山は、真宗本廟(東本願寺

真宗高田派…本山は専修寺(三重県津市)
親鸞が関東で布教した栃木県真岡市高田の地名に由来。
これ以降の宗派は木辺派を除き、高田派の流れをくみます。

真宗佛光寺派…本山は佛光寺(京都市)
真宗興正派…本山は興正寺(京都市。西本願寺の南隣)
真宗木辺派…本山は錦織寺(滋賀県野洲市)
真宗出雲寺派…本山は毫摂寺(福井県越前市)
真宗誠照寺派…本山は誠照寺(福井県鯖江市)
真宗三門徒派…本山は専照寺(福井県福井市)
真宗山元派…本山は證誠寺(福井県鯖江市)

十派には属しませんが、東本願寺(東京)を本山とする
浄土真宗東本願寺派があります。
世界最大のブロンズ立像で有名な牛久大仏(茨城県。全高120m)は
浄土真宗東本願寺派の霊園内に立っています。

ちなみに北海道には真宗北本願寺派が実在します。

西と東と三英傑と

浄土真宗のことを他宗の人は一向(いっこう)宗と言います。親鸞が「阿弥陀仏一仏に向け」と教えていたので世間の人は「一向宗」と呼んでいたそうです。

宗教や宗派のことを宗門(しゅうもん)といい、一つの宗門に集う「一門の徒(ともがら)」を門徒(もんと)と呼びます。
現在では浄土真宗の信者を門徒と呼ぶことが一般的です。

蓮如の精力的な布教活動により力をつけた門徒集団は、領主や戦国大名に反発して一向一揆を起こします。やがて加賀(石川県)一国を支配するようになりました。
天下統一を目指す織田信長は、有力な仏教集団である比叡山を焼き討ちし、本願寺に対しても弾圧の目を向けます。本願寺11代顕如(けんにょ)は石山本願寺(大阪市)に立てこもり、11年間にわたって信長と徹底抗戦します。
顕如は信長と和解しましたが、事実上の敗北でした。
信長との和解に、顕如の長男教如(きょうにょ)は反対の立場を貫きます。

その後、信長が本能寺で討たれ、豊臣秀吉が天下を統一。秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を建てます。秀吉は顕如に寺地を寄進し、本願寺を建立します。
これが現在の西本願寺です。
顕如亡き後、秀吉は教如の弟准如(じゅんにょ)を後継者に指名。准如を本願寺12代とします。

秀吉に代わって天下をとった徳川家康
家康は教如に、本願寺の東側に寺地を寄進。
これが現在の東本願寺になります。
家康は、巨大勢力になった本願寺は二分しておいた方が良いと考え、
教如を支援しました。こうして、西本願寺と東本願寺に分立したのです。

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浄土真宗に西と東がある理由に、三英傑が絡むとはまさかですよね!

西と東でご本尊や焼香の回数などに若干の違いはありますが、教義上の違いはまったくありません。

タイトルイラスト/Kimura

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