見出し画像

Vol.11「天台宗」

最澄と空海

奈良時代に栄華を極めた奈良仏教は、強大な権力を有します。政治に口出しすることもあり、影響力は絶大でした。

平安時代、奈良仏教に対抗するため、最新の仏教を習得するために2人の僧が唐(中国)に派遣されます。

僧の名は、最澄空海

現代まで日本の仏教界に影響を与えるスーパースターの誕生です。

天台宗は仏教の総合大学

最澄は中国に渡って仏教を学び、比叡山延暦寺を本山として天台宗を開きます。  

最澄は、比叡山に法華三昧堂を建立し、法華三昧を日本に初めて紹介しました。『法華経(ほけきょう)』を読経することによってこの身このままが清められる、罪障(極楽往生の妨げとなるもの)が消滅するという考えから行われました。自らの罪を懺悔(さんげ)することから法華懺法(ほっけせんぼう)とも言います。

「三昧」は心を一つに集中して余念のないことを意味します。
法華三昧は本来、「朝題目、夕念仏」と言われる日常修行の一つでした。  

題目とは日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」のこと。
念仏とは浄土系で唱える「南無阿弥陀仏」のこと。

朝に題目を唱え夕方に念仏を唱えるとは、ことわざでは一貫性がない信心の例えに使われますが、天台宗のおつとめ(勤行)は「法華懺法(題目)」と「例時作法(念仏)」を同日のうちにつとめることを示しています。

最澄が開山した比叡山延暦寺では、「法華経」「」「念仏」「密教」といった仏教のさまざまな科目を一度に学ぶことができました。

平安仏教の最高学府として、のちの鎌倉仏教の開祖となる法然親鸞栄西道元日蓮らを輩出した天台宗は、『仏教の総合大学』『日本仏教の母山』とも呼ばれます。

伝教大師・最澄

767年、最澄は比叡山の麓、大津市で生まれます。
19歳の時、東大寺で受戒をして年間10人しか認められない朝廷公認の僧侶になります。

エリート街道まっしぐらの最澄ですが、わずか3ヶ月でドロップアウト。比叡山に籠り、学問と修行に専念します。厳しい修行は12年にもおよびました。その中で、すでに中国で広まっていた天台宗の教えこそが全ての人々を仏へと導くための最善の教えであると確信しました。

804(延暦23)年、最澄38歳の時、天台教学を学ぶために遣唐使として唐へ国費留学します。同じ時期に真言宗を開く空海も唐に渡りましたが、それはまた次回で。

中国の天台宗は、中国が隋(ずい)と呼ばれていた時代に天台大師・智顗(ちぎ)が興しました。亀茲(クチャ)国出身の高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)が翻訳した『法華経』を最高の経典とし、その教えは円満な完全無欠を表す円教と呼ばれました。

最澄は天台宗の根本道場がある天台山でその極意を学びます。
一年間という短い期限でしたが、円教と戒律を極め、帰りがけに密教を学んで帰国。
四宗相承(ししゅうそうじょう)」と呼ばれる円・戒・禅・密、そして念仏を法華経の精神で統一した日本独自の天台宗を成立させました。

ちなみに日本における天台宗の正式名称は「天台法華円(てんだいほっけえん)宗」です。

最澄は死後、清和天皇より日本で初めて「大師」と名がつく「伝教大師」という諡号(しごう)が贈られました。  

画像1

余談ですが、日本にはじめて茶を伝えたのは最澄です。中国から茶の種を持ち帰り、比叡山麓の坂本に植えました。その場所は現在でも日吉茶園として残されています。

比叡山延暦寺

最澄は比叡山での修行中に薬師如来を彫り、788(延暦7)年、これをご本尊として現在の根本中堂(こんぽんちゅうどう)の前身、一乗止観堂(いちじょうしかんどう)を建立します。

最澄の死後、延暦寺という寺号を朝廷より賜ります。

比叡山は平成6年に世界遺産に登録されました。中心にある根本中堂は延暦寺の総本堂といえます。現在も最澄自作の薬師如来像(秘仏)をまつり、仏前の「不滅の法灯」は最澄の時代より1200年間ともりつづけています。
この法灯を消さないように、今でも僧侶たちが菜種油を注ぎ足し続けています。一度でも油を断ってしまえば1200年間守り続けてきた火が消えてしまうことから、「油断」という言葉が生まれたそうです。

画像2

天台宗の葬儀

天台宗では、すべての人が仏になれるとされているため、葬儀では仏になるための準備をするのが特徴です。

天台宗のお葬式は、密教儀礼あるいは顕教儀礼によって営まれます。

密教(みっきょう)とは、秘密仏教の略です。その名の通り、教えの核心部分は公開されず、師から弟子に直々な伝授されます。

密教以外の教えを顕教(けんきょう)と言います。その教えは秘密にされることなく、経典などで全ての者に明らかにされています。

密教儀礼である光明供(こうみょうく)とは、手指で仏の悟りを表す種々の印を結び、光明真言(こうみょうしんごん)を唱えます。

光明真言とは、「オン アボキヤ ビロシャナ マカボダラ マニハンドマジンバラハラバリタヤ ウン」という言葉です。真言宗の唱え方とは少しだけ異なります。

顕教儀礼は法華懺法と例時作法のことです。懺悔文(さんげもん)を唱え、阿弥陀仏に故人の浄土往生をお願いします。

天台宗のご本尊

天台宗ではご本尊を特定しません。阿弥陀仏、釈迦牟尼仏など、いずれも本尊といえます。葬儀に飾るご本尊は、その都度必ず菩提寺に確認してください。

三つ折りご本尊の場合、中央が阿弥陀如来、向かって右が高祖・天台大師智顗、向かって左が宗祖・伝教大師最澄です。

画像3

天台宗の焼香回数

天台宗では、焼香の回数はとくに定めていません。
仏・法(仏の教え)・僧の三宝に帰依する意味の3回、あるいは身を戒める戒香と心を静める定香の意味で2回、あるいは真心を込めて1回、いずれでもかまいません。
線香の本数も同様です。

天台宗のおもな宗派

天台寺門宗

最澄の開いた天台宗は、実は密教が不完全でした。最澄もそのことは自覚していて、のちに真言宗の開祖・空海に弟子入りしています。

天台密教を大成させたのは、第5代天台座主・円珍。円珍は滋賀県大津市に園城寺(おんじょうじ、三井寺)を建立。993年、円珍派が延暦寺から園城寺に移ったのを起源に天台寺門(じもん)宗が分立します。

天台寺門宗を「寺門派」と呼ぶのに対し、比叡山延暦寺を「山門派」と呼びます。

天台真盛宗

15世紀後半に比叡山で修行をした真盛(しんぜい)は滋賀県大津市にある西教寺(さいきょうじ)を復興。浄土信仰(念仏)と戒律を重視した天台真盛(しんぜい)宗を分立。
基本的な教義に大きな違いはありません。

聖観音宗

雷門がある浅草・浅草寺(せんそうじ)は、1950年に天台宗から独立し、
聖観音(しょうかんのん)宗の本山になりました。

修験道・本山派

修験道(しゅげんどう)とは山へこもって厳しい修行を行うことにより、
悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入りられた日本独特の宗教です。修験道の実践者を山伏(やまぶし)と言います。修験道の開祖は役小角(えんのおづぬ)です。

画像4

修験道は大きく分けて、真言宗系の当山派と天台宗系の本山派に分類されます。本山派の開祖は、天台宗と密教を融合させた天台寺門宗の宗祖・円珍です。

もとは天台寺門宗の大本山だった京都の聖護院(しょうごいん)を総本山とするのが本山修験(ほんざんしゅげん)宗です。

奈良県吉野にある金峯山(きんぷせん)寺を総本山とするのが金峯山修験本宗。当初は真言宗系の当山派でしたが、徳川家康の命で天台宗の僧・天海が学頭となり、天台宗の傘下に入りました(1948年に独立)。  

「一隅を照らす」

最澄が記した書物に、次のような言葉があります。

「一隅(いちぐう)を照らす。これ則ち国宝なり。」

「一隅」とは、今、あなたがいる場所のこと。
社会の一隅にいながら、社会を照らす。
みんなが気が付かないような片隅で社会を照らす人こそ国の宝という意味です。たとえ注目されなくても、今置かれた場所でベストを尽くす。
ひとりひとりが輝いて、その光が集まって社会を照らす。

仕事でも同じ事が言えますよね。

一隅を照らす人になりましょう。 

まとめ

・最澄が開いた天台宗は日本仏教の原点
・総本山は比叡山延暦寺
・朝念仏に夕題目。法華教が根本経典

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?