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1/14〜最近見たもの聞いたもの

いざ書いたらなんてことないメールを書き始められなくて目を逸らしてるだけで丸一日を浪費してしまうの、マジでどうにかしたいぜ。


このnoteには以下のコンテンツのネタバレが含まれるかもしれません。

窓際のトットちゃん

もしあなたがまだこの映画を見ていないなら、こんなもの読んでいないで早く見にいった方がいい。

いいからみてきてください。






いきなりラストシーンの話をするんですけど、リンゴ園の白い花が綺麗だったね。

すっごく良い映画だった。木登りがしたくなった。
アニメーション作品としてもめちゃくちゃ良かった。
教室の電車が走り出すところ、プールのところ、息を飲むアニメーション。本当にワクワクさせてくれる。
綿花畑の夢のところ、怖かったな。

トモエ学園、すげー学校だぜ。お便所財布事件のところとか。手伝ったりしないんだ。
生徒が少ないからこそできることではあるけど、子供一人一人の自主性を尊重して自由に学ばせるって実行するの大変すぎる。
教育って難しいよな〜。
小林先生、かっこいいよ。「今度は、どんな学校を作ろうか」って、そんじょそこらの人間には言えないよ。目の前で学校が燃えてるときに。
パワーがある。パワーがある人間が何度も何度も挑み続けることで世界を少しづつ変えていく。

ヤスアキくんの別れの言葉の演出が凄すぎた。
駅のところでは聞かせてくれなくて、「攻めたことするな〜」と思っていたら本当の別れのところでその言葉を出してきて、そこからの出征する若者、戦傷者、戦死者の家族を映す流れ。
この作品、いつから作り始めたんだろう。
今の時代に見られるべき作品になっている。

上映後、ふと後ろを振り返ったら親子連れのお母さんが顔にハンカチを当て続けていた。
もう一度前を向いて、「スーッ ハー……」ってしてから劇場を出た。



サイハテ / 小林オニキス

「たおやか」という言葉を見かけて、思い出して聴いた。

歌詞が良いよね。「たおやかな恋でした」という言葉の美しさ。

「届けばいいなぁ」ってすごいな。
僕が歌詞を書いたらここは「届きますように」にしてしまう気がする。
「届けばいいなぁ」なんだ。確かにしっくりくる。しっくりくる距離感。

ニコニコ動画を見てみると、「〇〇が亡くなったので」というコメントがたくさんついている。
ボカロ曲動画が故人との別れの場になっている。
故人との別れというのがそもそも重いものだが、ニコニコ動画のコメントは重みが乗っかるようなものではないので程よく軽くなっている。
死別って何でもかんでも重くしてしまって息苦しくなってしまいがちなので、こういう場所があると助かる人もたくさんいるんだろうと思う。

良い曲だし。


ふたりのディスタンス ピース 綾部祐二と又吉直樹

全然違うタイプに見えてどこかの面ではすごく似ている2人。
舞台上で6年ぶりに再会して、一回きりのトークライブをする。
トークライブのタイトルが「本とアメリカ」でMCが「まずは、本の登場です!」「続いて、アメリカの登場です!」って言ってたの面白かった。

6年間会ってない相方と一緒にやるためのコントを書き続ける又吉。一方「コントとかもうやらないと思います」ってカメラの前で言い切ってしまう綾部。すれ違う2人。

かと思えば、いざ又吉に会ったら「いくつかネタになりそうなことメモってあるんだよね」と言い出す綾部。やっぱやりたいんじゃん。ピースの2人でお笑いを。でも、今じゃないってことか。

ピース綾部の「四六時中カッコつけ続けられる」という才能、すごいな。コントとかもうやらないと思うっていう発言もカッコつけの一部なんだろうな。

終盤、居酒屋から出て遠ざかっていく2人の歩き方の揺れがすごく似ているのを見て少し泣きそうになった。

恋の門 / 羽生生純

青【オールー】と同じく羽生生純のマンガ。以前実写映画を見たことがある。松尾スズキが監督してるやつ。

ダメ人間だ。ダメ人間って好きだ。ダメ人間がダメ人間なりにあがいてるのが好きだ。

蒼木門という主人公にすごく自分を重ねていた。青い。青臭すぎるほど青い。自分もそうだ。どこまでいっても自意識自意識。なんなんだ。俺はどうしたらいいんだ。
父との関係も似ている。正当に評価されている芸術家の父親の影に苛まれ、父からは遠いことをしようとしつつもどこか似たようなことをやっている。これも僕と同じだ。
「俺は父に勝ちたかっただけなのか?俺のやりたいことってなんなんだ?」俺はどうなんだ。自分の父があの父じゃなかったら自分はどうなっていたのか。考えたって仕方ないけど。もうそこに生まれてきてしまったのだから。

蒼木門というキャラクターは自分と似ているが、大きく違う点が二つある。物語の終点ではしっかり結果が出始めているということと、恋をしているということ。
蒼木門の物語はマンガの単行本として世に出ているし、最終的にはいい感じのところに着地している。僕の物語はなあなあで時間が過ぎ去り続けているし、最終的にも何にもならずに終わってしまうかもしれない。助けてくれ。キー。
恋もしてない。恋ってしたほうがいいんですか?恋ってしたほうがいいとか悪いとかでするもんじゃないよな。知ってます。

「流離いと彷徨い」っていうサブタイトルが好きだった。「流離い(さすらい)」って書くんだ。初めて知った。「彷徨い(さまよい)」はなんか知ってた。

毬藻田が良かったな。前作主人公の師匠キャラみたいな立ち位置。映画では監督の松尾スズキ自身が演じていた。松尾スズキも元々マンガ家になりたかったらしい。松尾スズキ好きなんだよな。

映画版も見返したいなと思った。
でも何かを見返したいなと思って、実際見返したことなんてほとんどない。数回はあるかも。でもほとんどない。
それじゃダメだろう。映画を一本見るなんてそんなすごく大変なことじゃあないんだから、やりたいと思ったら実際やったほうがいい。いや、やらなきゃならない。いつもの自分なら「"やらなきゃならない"くらいかもしれない」だとかぼかした言い方をしてしまうが、断言したほうがいい。やらなきゃならない。やらなきゃならないんだ。

恋の門 / 松尾スズキ

というわけで実写映画を見返した。こういうことから「やろうと思ったことはやれる」という自己肯定感を育てていきたい。それでいてできなかったことはどんどん忘れていこう。できたことだけ積み重ねていけばいい。

面白いなー。
原作を読んだ上で見返すと、実写映画化がかなり上手い。
登場人物の統合とかエピソードの凝縮の仕方も上手いし、映画ならではの表現への変換も上手い。松尾スズキってすごいのかも。

「手のダルさをバカにするな」っていうのが毬藻田が漫画家をやめた表向きの理由として使われてるけど、実際バカにできないよな。ダルさって。
身体的なダルさというのが続けることへの障壁としてあるからこそ、その障壁を打破するエネルギーが失われたときに現実的な理由として浮かび上がってくる。
何かを続ける上で、なるべく身体的なダルさを軽減する方法を考えていくのは大事だと思う。

マンガを映画にするならば、やっぱりマンガとは違うものが見たい。つまり、同じ物語を語っていてもマンガではできない見せ方をしてほしい。というのがある。
マンガと映画の大きな違いといえば「間」と「音」だ。と思う。
ちゃんと間と音を使っていると映画化が上手いな〜と思う。
三人が漫画賞に応募する作品を描いてる時の音楽が良かったな。

爆発オチってサイコーだ。

三峰結華GRAD

面白かった。
アイドルファンがアイドルとしてアイドルと戦うためには、自分もいいアイドルだということを認めなければならない。でもアイドルファンとしていいアイドルを知っているからこそ、自分をそこに入れるのは難しい。

僕も僕を多少なりとも評価してくれる人たちのために、自分を過剰に卑下するのは控えたいと思った。でもそういう性質として染み付いてしまっているものでもあるので、ちょっとは許してほしい。

最後のコミュのこっちに目配せしてくるところ、すご。こいつ〜〜〜!!!


幻の漫画家”高木りゅうぞう”とは

へー、知らなかったマンガ家だ。
華倫変がマンガ家になるきっかけだというだけでもかなり気になる。確かに作品の雰囲気が似ている。
復刊されたら買おう。

自分が若くして死んだマンガ家の作品を読むとき、「作者が若くして死んでいる」という情報を上乗せして作品を楽しんでいる気がして不謹慎でキモいなと思う。自分に対して。「死んだマンガ家の作品」として楽しんでいる自分がキモい。
青山景とか、高畠エナガとか、恵口公生とか、華倫変もそう。
「こんなにいい作品を描ける人なのにもう新作出ないのか〜!」という感情を振りかけて作品を読んでしまっている感覚がある。
これってしょうがないのかな。この高木りゅうぞうというマンガ家の作品もそんな読み方をしてしまうんだろう。
嫌だな〜。でもそう思っちゃうもんな〜。


煙草

煙草。齢(よわい)24にして初めて煙草を吸った。
全然良さがわからなかった。むせた。
煙草吸えるようになりたいぜ!という気持ちもないので、ハマるまでチャレンジすることもないだろうな。
シャボン玉でいい。

霧子GRAD

スタートラインに立つことすらできない人というのも確かに居て、じゃあそれを知ってしまったスタートラインに立つ人はどうすればいいかっていうと、もうその人の分も背負うくらいの気持ちでいるしかないと思うんだよな。
挑むことができる人が挑めない人を気にして挑まないのって双方に良くない。と思う。
挑戦権があるのは当然ではなく、自分は恵まれていることを自覚し、挑めない人もいることを認識しながら、その重みを背負ったまま挑む。という姿勢が必要なんじゃないだろうか。

人生は選択の連続とはよく言ったものだが、そもそも人によって持ってる選択肢が違うし選択に必要なエネルギー量も違う。
医者は誰かの選択肢を増やせるし、アイドルは誰かに選択するエネルギーを与えることができる 。
どっちもすごい。

アイドルマスター シャイニーカラーズ 事務的光空記録(ジムシャニ)

こうして見るとタイトル長いな。
シャニマスのスピンオフコミック。
マンガが上手い。マンガが上手すぎてシャニマスを知らない人でもそこそこ面白く読めちゃうんじゃないかという気がする。気がするだけかも。

スピンオフの面白さは本編で描けないものを描いてこそだ。
こそだが、「そこ描いちゃっていいの!?」みたいな部分を出されるとビビってしまう。
最新話(4話)では、283プロ(本編の舞台であるアイドル事務所)のオーディションに落ちた女の子が描かれている。そんなとこ描いちゃっていいんだ。
シャニマス本編には所属オーディションに受かった子しか出てこない。(もしくはスカウトされてアイドルになった子)
そりゃそうだ。アイドルを育てるゲームなんだから。アイドルになれなかった子を描く必要はない。
でもオーディションの描写があるってことは、落ちてる子もいるってことなんだよな。それも、そりゃそうだ。

でもさあ、見たくないじゃん。見たいけど。
フィクションの中でくらい、上手くいってる人だけを見ていたいじゃないですか。
そりゃあいるんだろうけど、描かなければフィクションの上では見なかったことにできちゃうじゃないですか。
なんで描いちゃうんですか。
描かれたら見ちゃうじゃん。見たい気持ちもあるんだから。
心がふたつある。

霧子GRADの感想とも被るところがあるけど、選ばれた側の人間には選ばれたという自覚を持ってほしいし、選ばれなかった人たちの想いも背負ってほしい。これは第三者のエゴでしかないんだけど。別に自覚しなくてもいいし背負わなくてもいいんだけどさ。
見せつけてさえくれればなんだっていいんだけど。
心がふたつある。

283プロのオーディションに落ちた子から見える283プロのアイドル、どんな感じなんだろう。4話後編が怖いよ。怖いけど早く見たいよ。
次の更新、2月3日かー。


さようならむかない安藤

10年以上いろんな食べ物を剥かずに食べてきた「むかない安藤」のお別れ会。

正直、会場に着いたとき「なんでこんな変なイベントに申し込んでしまったんだろう」と思った。
まさか、あんなに楽しいとは。
目の前で1人の人間が、いろんな食べ物を剥かずに食べる。ただそれなのにめちゃくちゃ面白い。

いやまあ全然知らない人が同じことをやっていてもあんなにノれなかっただろうとは思う。
目の前で剥かずに食べていたのは、僕が中学生だかの頃からYouTubeで見ていた「むかない安藤」その人だった。
僕の半生と言ってもいいくらいの期間で画面の向こうで剥かずに食べていた人が、今目の前で剥かずに食べている。そりゃあ面白い。

イベント会場はお客さんがギッチリ詰まっていて、その誰もがむかない安藤を大好きだった。すごかった。熱が。

「むかないセット」というむかない安藤が今まで剥かずに食べてきた食べ物のセット(バナナ・レモン・落花生・生ニンニク・ゆでたまご)が売られていたので購入した。

イベント内のコーナーで「むかないセット」を買った人たちみんなで壇上に上がりみんなでバナナを剥かずに食べるというパートがあり、僕も食べた。
渋かったが、まあ食べれる範囲の渋さだ。バナナって剥かなくて大丈夫です。
その後、剥いて食べたら格段に美味しかった。

落花生もイベントを見ながら客席で剥かずに食べた。殻の繊維がめちゃくちゃ邪魔だけど、味的にはまあ剥かずに食べても全然大丈夫。

レモン・生ニンニク・ゆでたまごは翌日に家で剥かずに食べた。

せっかくなので動画も撮った。

一度動画を投稿した後むかない安藤を見返したら「もっと削れるな」と思ったので30秒版も作った。



自分でやってみるとむかない安藤のコメント力の高さがわかる。

このスピード感すごすぎる。