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映画『Arc』感想

Arc--その意味は、円弧。
辞書を引くと円弧とは、「円周上の二点によって区切られた円周の部分」とある。
なぜ、この映画のタイトルが『Arc』でなければならなかったのか。その理由は、不老不死を手放したラストのリナの台詞で明かされる。

"私の人生には初めて、始まりと終わりができた"

生に、手を伸ばして触れるリナ。
そしてタイトル『Arc』が真っ白な画面に浮かび上がり、映画は幕を閉じる。

すなわち本作において「円」とは不老不死、「円周上の二点」とは、始まりと終わり、生と死を意味するのであろう。そして「円弧=Arc」こそが人生を表しているのかもしれない。


さて、不老不死を扱うSF作品はこの世に星の数ほどあり、そうした作品のほとんどが"生は死があるからこそ意味がある"という結論に落ち着いているように思う。本作品でもインタビュアーが同様の持論を展開し、それに対しリナは「それは不老不死を手に入れられなかった人間が、老いて死に行く人生を慰めるためのプロパガンダに過ぎない」と反論し、自らの生き方でもって人生の意味を見つけていくと語った。私はそのリナの熱い心意気に非常に期待したのだが、やはり結局は"生は死があるからこそ意味がある"という答えに辿り着くという結果になり、この映画でなにか新しい価値観を得られるのではないかという期待は裏切られてしまった、というのが本音である。
ただ、本作の主題は元来生の実感を得られなかった女性が不老不死を獲得し、その長い長い時間の中で生の意味を見つけていくというプロセスにあるので、生と死のテーマに対する新奇の答えを求めようとするのは間違っているのかもしれない。

◆描かれたもうひとつの、不老不死

本作においては不老不死に対するさまざまなスタンスが描かれるが、天音が実現した実質的な不老不死とは異なる、いわば「もうひとつの不老不死の在り方」が描かれていることに私は興味を惹かれた。

もうひとつの不老不死。
端的に言えばそれは、"芸術"ではないかと思う。

不老不死とは、時間を止めることである。はじまりも終わりもなく、進みもせず止まりもせず、永遠に円をぐるぐると巡る。それはリナが天音を失ってからの時がすべてモノクロで描かれたことからも明らかである。
だが作中において時間を止めるものはなにも不老不死の施術だけではない。
プラスチネーションもその一種であると考えられる。死んだ肉体を腐敗させることなく、その肉体の持ち主が生きていた頃の"生の記憶"、その一瞬を切り取ったポージングで表現し、固定化することで永遠に形を保たせる。
お腹の中にいた頃、大きく口を開けているところ、ピアノを弾いているところ。ポージングはそれぞれだがそのすべてにその人らしい、愛に溢れた人生が刻まれている。
彼らの人生がモノとなり固定化されることで、残された者はいつでも鮮やかに故人の記憶を呼び戻すことができ、その人と生きた生を愛おしむだろう。
エマやリナの行っていたことは、死体を生きたままのように再現することで死を否定するという意味での不老不死ではない。死を死と認め、死体はモノと認め、しかし死んだ者と生きた時間を永遠に固定化することで彼らを生かすという行為であった。死体をモノとして捉え、そこに立ち現れる美を追求するのだとエマは語っていたが、彼女が死体に見出した美とは、単なる造形美ではなかったろう。一番その人らしさ、その人の人生が現れるポーズこそが美しい。だからこそ彼女は、最愛のパートナーの隣でプラスチネーションを行い息を引き取ることで、パートナーと彼女自身の作品を完成させることができたのであろう。彼女たちは、互いに隣で肩を寄せ合っているポーズが最も、美しいのである。
もちろん、プラスチネーションという芸術(エマもリナも、そういえばアーティストと呼ばれていた)のみがもうひとつと不老不死の在り方ではない。
答えはじつにありふれていて、例えばスケッチをする、写真を撮るといった行為が本作では幾度となく描写されてきたが、それらもすべて生を切り取り時間を固定化する芸術たちである。
例えばエマの息子は愛する妻の顔を何枚も何枚もスケッチした。またリナ達は古びたフィルムカメラで記念撮影を行うが、時を経て現像された写真のなかの、蘇った過去の幸せのなんと鮮やかなことだろう。そもそもリナは天音の写真を何枚も撮影して飾っている。ある一瞬の天音を切り取り、モノとして固定化するという意味ではプラスチネーションと写真とに、大きな違いはないようにも思われる。
また非常に示唆的であり印象的でもあったのは、天音の庭に造られた家に、貝殻が飾られていたことであった。エマの娘は吊るされた貝殻に触れ、音を奏でていた。貝殻、とはかつてその中に生き物がいた痕跡、いわば死骸であるともいえるが、そうした生の痕を残した貝殻達に美しさを感じ、装飾品として飾って楽しんでいるのである。

リナは100年以上の時を生き、この世の全てを知り尽くしたわけではないけれども彼女なりの答えを得て、納得の上で死を選んだ。
しかし我々の人生には否応なく死が内包されており、いかに生きるかといかに死ぬかという問いはイコールで結ばれている。
いずれ死が訪れる我々の人生にもしも救いがあるとすれば、その駆け抜けた生の一瞬は、芸術という手段により誰かの手元で永遠にモノとして固定化され、輝き、愛され続けることにあるのかもしれない。


◆最後に、岡田将生オタクとしての感想

常々、こんなに美しい人間はこの世にまたといないと思いながらそのご尊顔をスクリーンや劇場で拝見しているのだが、今回はただ美しいだけでなくその美が作品に対してプラスに働いるところに見応えがあった。
天音は不老不死を実現する天才科学者であり、どういうわけか不老不死を実現する前からまるで宇宙にでも行ってきたかのように老いを感じさせない容貌をもつ男である。なかなかSF色の強い、異次元なキャラクターであるが、彼自身の超常的な美によってSF的設定に説得力が増しているのではないか。洒落た衣装やハイセンスなロケ地ともあいまって非現実感がはんぱではない。(白いスタンドカラーのシャツがとても可愛くて好き)
また天音は遺伝子異常によりあっという間に死んでしまうのだが、彼の儚さのある抑制された芝居は特に好きだなと改めて感じさせられた。そういえば寺島しのぶとの掛け合いは、『ゴーゴーボーイズ』以来だろうか。さすがの寺島しのぶの貫禄であったが、姉に対して一歩も引かぬ強い意思を、深い哀しみの表情とともに表していたシーンも特に印象的だった。
これからも岡田将生には、非現実的に美しいキャラクターを演じ、その非現実感を存分に見せつけると共に、しかしこの俳優の美は実在するのだという二重の驚きを我々に与え続けてほしいものである。

(2021.7.5鑑賞)

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