改竄・熱海殺人事件 2020 モンテカルロ・イリュージョン 感想

熱海殺人事件とはいかなる物語かを一言で説明するならば、或る人は愛の話というだろう。或る人は青春の話だというかもしれない。見方はひとそれぞれだ。私は初めて熱海殺人事件という作品に触れた時から、これは弱い人間が泥水を啜りながらも強く生きていく、「尊厳」の物語であると思っている。弱い、とは心の弱さのことだけではない。社会的に或いは状況的に、最下層に追い込まれて生きざるを得なかったことによって貼られた、レッテルのことでもある。

私はつかこうへいの作品をこれ以外に「熱海殺人事件」「売春捜査官」「幕末純情伝」「改竄・熱海殺人事件 ロンゲスト・スプリング」しか観たことがない。モンテカルロ・イリュージョンのバージョンはこの改竄、と銘打たれた作品が初見である。初演の台本は観劇後に読んだ。不勉強なので決して偉そうな感想などいえないが、このモンテカルロ・イリュージョンを心底楽しんでいる人間の一人として、これまで見てきた熱海殺人事件のバリエーションのなかでのモンテカルロ、について、私なりに整理してみたい。

東西冷戦の最中、1980年モスクワオリンピック。日本を始め西側諸国がオリンピックをボイコットした歴史的事実をもとに1993年、阿部寛を主演・木村伝兵衛として脚本が書かれたのがモンテカルロ・イリュージョンだという。今回主演に抜擢された多和田さんは、手足が長く身長もあり、ダンスが抜群に上手くしなやかさもキレもあるところなどが、棒高跳びのスター選手、木村伝兵衛という役によくハマっているなぁ、と思った。
さて冒頭に、社会的な弱さを抱えて生きざるを得なかった人間の物語、といったが、ゲイ、が悲しいことにいまだ差別や偏見の対象の存在であることは、目を逸らしてはならない事実である。主人公木村伝兵衛はゲイでありながら東京警視庁という国家権力を象徴する場所で部長という地位についている。山形から赴任してきた速水が、警視庁でオカマがふんぞりかえっているとは思わなかった、というセリフがある。過剰なまでにケバケバしく、色に狂ったように(典型的な偏見に満ちたオカマ描写のように)演出された木村伝兵衛に対し、冒頭、我々の多くは速水と大差ない感情を抱くのではないだろうか。もちろん、カマ野郎、なんて言葉は聞いていて気持ちの良いものではないという感覚もある。しかし、つかこうへいが偏見に満ちた目で見せ物の如く主人公をゲイにし、奇をてらったわけではなかったこともまた、この脚本からは痛いほど伝わってくるのである。その理由は後述する。もうあと数年もすれば、ここで木村に投げつけられた偏見に満ちた言葉は、すべてのひとにとって陳腐で時代遅れでタブーな言葉として受け取られるだろう。その時にはモンテカルロのバージョンにとって変わって、新たな弱者が主人公に据えられたバージョンが生まれてくるのかもしれない。
少し話が逸れたが、つかこうへいが描きたかったのはきっと、クズだ家畜だと蔑まれた人々の尊厳なのであろうと感じている。罵声を浴びせられる彼は気高くステージの中央に立ち、オカマですけどなにか?というように開き直って見せるようでもあるが、他者からの嘲りに傷ついていたことも真実である。それは、水野との過去の交流、水野への謝意からも明らかだ。木村はどうしようもない男に惚れて、そのために身体も売った。抱かれたくて抱かれたくて仕方なかったという苛烈な心情の吐露。自分を底辺世界に縛りつける壮絶な愛と、まっとうなひとであろうとするスポーツ選手としての魂。その狭間で木村は苦しみ続けていた。彼はモンテカルロで愛した男を失った。その時、彼は未踏の6メートル88への情熱を「失った」のではきっとなかったんだろう。まるで手品師のように巧みに華麗に愛する男の罪を「隠し」、そして自身の情熱をも「隠して」しまったのだ。まるで手際の鮮やかな手品師のイリュージョンのように。本当は誰よりも自由に、高く、飛びたかったのに。東京警視庁で踏ん反り返って鳥になったように高みから人を裁いたって、ちっとも鳥になれやしなかった。求めていたのは、そんな自由ではなかったのだ。奴隷の歴史に端を発する、人類三千年の底辺社会に生きてきた人間達の記憶と想いを背負って、オカマだと蔑まれた木村は最期に6メートル88を跳んだ。鳥になった、自由になった。「熱海殺人事件」では貧しい地方出身の労働者、「売春捜査官」では女、在日朝鮮人が社会的弱者として登場し、その尊厳が物語られた。モンテカルロ・イリュージョンでゲイを主人公にしたつかこうへいは、ついに人類三千年の歴史におけるすべての弱者たちについて物語ったのである。彼ら虐げられてきた者たちの、自由への渇望。胸が熱くなって止まらなかった。私がこよなくモンテカルロ・イリュージョンを愛してしまうのは、この熱さのためにほかならない。

モンテカルロでともかく泣いてしまうのはアイちゃんのシーン…児玉さん、終盤の畳み掛けの演技がすごく胸に迫る。辛く苦しい選手時代を送ってきたアイ子がオリンピックに出られず、コーチに裏切られ、なんの成果もあげられぬまま選手生命を終え、故郷の幻影をみたまま殺される。しんどすぎる。彼女の青春とはいったいなんだったのか。
アイ子を演じる水野警部が木村伝兵衛に叶わぬ恋をし続けている二重構造が、モンテカルロのひとつの見せ場であろう。アイ子は自分の捧げた青春が返らないことを絶望する。恋は実らず、スポーツ選手の寿命はあまりに短かかった。対して水野は、木村への恋愛が成就しないものだとしっていながら最後まで想いを捧げることをやめなかった。彼女もまたスポーツ選手であったし、病気をして寿命も長くはない。アイ子のように絶望したり、誰かを恨んだりしてもおかしくない状況である。しかし、彼女は自分の生き方にいっぺんの悔いも見せなかった。最期の最期まで、木村伝兵衛と共に「生きようと」したのである。それはコーチを殺してしまい、大山に殺されたアイ子の姿とあまりに対照的だ。熱海殺人事件といえば木村部長と水野(『売春捜査官』では熊田)の結ばれぬ愛、というのもひとつのテーマであるように思われる。モンテカルロではゲイであるがゆえに抱えた木村の孤独を、水野はその愛で癒した。水野の優しさへの限りない感謝を木村は最後に包み隠さず伝える。それでもなお木村には死してなお心を掴んで離さない愛する男がいるし、そもそもゲイであるから水野を愛せない。例えばロンゲストスプリングの木村伝兵衛は愚かで愛おしいエゴのために水野と結ばれることがなかったが、モンテカルロの木村はそういう問題ではなくて、彼がゲイであるから絶対的に結ばれない世界線の男女になってしまう。だがそれでも水野が木村を愛したのは、木村を愛することが彼女自身の幸せだったからだ。木村に幸せにしてもらおうだなんて、ちっとも思っていなかった。だから、悔いのない青春をおくれたと胸を張れた。そんな彼女に木村は感謝以外なんの言葉を送ってやればよかったのか、私はわからない。
さて、補欠選手、というこれまたスポーツ社会における底辺で泥水をすすって生きてきた大山金太郎は、捧げた青春すら他人に否定されている。だからこそ、彼は木村に夢を見ていた、いや人類そのものに希望を見ていたのだ。いつか人類未踏の6メートル88を超える人間が現れる、その時にこそ自分達は鳥になれる、自由になれると。大山はあの捜査室を出ていくまで、底辺の人間だった。冒頭、靴を舐めさせようとした木村の靴を結局は必死に磨いてまわり、水野にどうして恨み言ひとつ言わなかったのかと問い、親にそう躾けられたからと返された男なのだ。冒頭、我々観劇者が木村と水野に対して抱く印象はきっと、「おかしな人たち」だろう。犯人の大山金太郎のほうがよほどまともに見える。だけれどどうか、「ブタもオカマも人間のクズじゃねえ!人間のクズっていうのは人が人を殺すってことだ」と木村が叫んだとき、それこそ後光が差すほど、木村伝兵衛という存在が強く眩しく正しく、輝いて見えてくる。大山が木村に跪いたのは彼が補欠だったからでもなんでもない。木村がゲイであることも関係ない。ただ大山金太郎は、木村や水野に純粋に「人として」劣っていたことを肌で感じ取ったのだ。人が人らしくあることの崇高さ。大山は木村の靴を胸に携えて人類三千年の歴史を負って十三階段に臨み、今度こそ自らも尊厳をもって己の過ちと向かい合い、飛んだのである。鳥越さんは、独特のつかこうへい節を力まず自分のものにされている安定感があり、カンパニーの中心になってみんなを支える存在感が光る芝居をされていたように感じた。

最後に。速水健作という男について語ろうとするとこう、どうしても好きという感情が溢れてテンションがやばめになる。もともと『メサイア』シリーズのファンなもので、メサイアでめちゃくちゃ良かった菊池さんが出演されてる作品で、今後気になるものがあれば見たいな、という思いからこのモンテカルロのチケットを取ったわけなんだが……良すぎた。
お顔がはちゃめちゃ綺麗でスーツをピシッと着こなしいかにもキレもの若手の刑事さん、山形の死神でございといったふうに出てくるわけだけど、まーーー、速水という男はちょろい。そこが爆裂に可愛い。
モンテカルロにおいて目撃者(観劇者と近い視点)、そして継承者という役割を与えられた速水。他の熱海では熊田留吉という役が速水の代わりに出てくるが、モンテカルロだけ(もし他にあったらすみません)は速水という別名がつく。それほど、速水という役に与えられた役割が熊田とは異なってくるという意味なのか、それとも?熊田と違って速水には地元に愛した女もいない。ただ木村の過去を解き明かすための存在として現れる。そして、目に見えて部長に感化されていくその過程が
見所なのだ。あんなにはじめはつっかかってたのに、部長を庇って大山に、声出したら悪いかよ、と殴りかかるシーンはいつも泣けてしまう。ああ本当にこの人は、純粋な心で木村伝兵衛という人間の人となりを捉えて愛しているんだなって、わかってしまう。ある意味では速水という役は、透明なのだ。透明だからこそ、綺麗な色に染まる。まるで初めて熱海を観にきた観客のように、木村や水野にはじめは驚き呆れ軽蔑し、しかし彼らの人間性の奥底にあるものを知って彼らを好きになる。こんな役は確かに、若くて一生懸命でなんでも吸収してぐんぐん成長して人への情と優しい心を持った方に演じてもらうのが良いですよねぇ、菊池さんのことなんですけど…木村や水野、ときに大山に役の上でもアドリブでも振り回されながら懸命に食らいついて、芝居も日々良くなっていく姿は見ていてとても幸福でした。思わずチケット足した。(いやしかしラスールもそうだったんだけど、菊池さんはクールに見えて本当は情のあるちょろくて可愛い子、似合いすぎませんか?!有識者にご意見をうかがいたい)(あと、無表情キメ顔でタンバリン振りながら踊るところ好きすぎるわたしは最近あのシーンを観るために生きている感じすらある)
最後に継承者として部長の死に目に立ち会う速水のシーンは圧巻。水野の現状を伝えるセリフの情感、ロサンゼルスを再現するかのようなあの長台詞の迫力。涙が止まらない。

東京楽まであと数日。折しも東京オリンピック延期が決まったなかでのモンテカルロイリュージョンの公演には本当にさまざまな想いが募る。
どうか無事、皆様の納得のいくラストが迎えられますよう。

(2020/3/25執筆)

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