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本にする前にさ。

小学5年生。SOS電話番号シールを筆箱に隠しお守りにしていた。電話をしても大人が嘘クサイことを言って終わりだし、それを言ってもらえて私は満足なのだろうか。と生意気ながら思っていた。両親と他人の死んだ目に追われ、日々耐えることしかできなかった。知っている、自分が思うより何も出来ないことを。
そうゆう経験のある人達はきっとわかってくれるだろう。

昔深く感動したことがある。幼稚園の卒業式で抱きしめられたあの時、本物の心を目の当たりにした。それまでわからなかった悲しみを通り越して何かが溢れた。
あれは自分にとって大きな気付きであり、今でも影響を与えている。
見ず知らずの傷付いた人間を癒せるだろうか。
私は少なくとも無言で抱きしめることしかできないと思うし、うんうんと頷きティッシュを渡すだろう。人というのは案外無意識の方が救えるのかもしれないと友人の言葉で知った。
アウトプットとしての写真や文章ではあるが、それが誰かの何かになれたら嬉しいと思う。

私の写真は部屋の隅で泣いている10歳の自分に向けているものだ。当時の私を抱きしめに行き、大泣きさせてあげたい。
写るも同じく、過去へ手紙を送るように今の自分が「ちゃんと生きてるよ」とメッセージを込めてそこに在る。

SNSが生活に溶け込み、プライベートが可視化されるようになった。美男美女にイイねが付いていく世界が幼い頃から当たり前であり、その当たり前がSNSを創り上げていると私は思う。
写真を始めてからその実態に疑問を抱く。私が本当に欲しいのは人間味であり、化粧や服装で着飾りきれない人臭さ、生きる意味を肯定するものでありたい。写真にだけは素直であり続けたいからだ。
私だって可愛く見られたい時はあります。明日のためにお風呂場でカミソリを握り、ヘアケアをしてパックする、この時間含めて可愛いぞって肯定できる人でありたいな。

「ありのままの自分を愛せ」なんて難題を、私はフルヌードとして定義し、裸よりもっと裸に生きたい。怖い事も恥ずかしい事も恐ろしいことだって私の写真が"良い訳"になれますように。

頑張って
頑張れなくて
立ち止まって
うまく止まれなくて
ゆっくり立ち上がって
また転んで
そんなあなたが損をしてほしくないなって
私は祈ってるよ。
たまには人に合わせて止まってみたり
1人の苦しさを共有して苦しんでみたり
思ってるよりさ、ちゃんと生きてるよ。

大丈夫、死にたくていいんだよ。

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