閉店してから「行きたかった」、亡くなってから「会いたかった」という後悔の苦み
最近、友人や知人の中に店を畳む事になった人が何人かいる。
その一人から聞かされた、「閉店しました。これまでありがとうございました。」とSNSにあげたところ、一度も来てくれなかった人達から「えー行きたかったのに!」とコメントがあり、「あんなに来てほしいと言ってたのに・・・」と感情の叫びの書き込みをぐっと我慢したという話。
私も期間限定イベントを企画したり手伝う事があるが、何か月もかけて本気で準備して全力で宣伝してみんな来てくれー!と呼びかけていたのに、全てが終わってから言われる「え、終わったの!?」「行きたかった!次があったら行くね」の、なんともいえない悔しさ。あの感覚はなんというか、苦い、とても、苦いのだ。
次があるとは、限らない。
「あ、逃してた!次やるときは行く!」「あー、申し込み期限終わってた。次はまた!」という言葉を貰うのは嬉しい気持ちもある一方、そのイベントに思い入れがあればあるほど、(正直次が開催できるか解らないし来てほしかったな・・・)という気持ちが残る。
常設していたイベントや店なら、尚更だろう。
閉店とは違うが同じような気持ちを感じる事がある、「結局一度も会えなかった。会いに行きたかった・・・」と本人が亡くなった後で言われてしまう事だ。
私はALSなど重度肢体不自由者らの意思伝達装置を研究開発している中、寝たきりや重度障害をもつ人達と年間何十人と会い、そして死に別れてきた中でそういった後悔の声も多く見てきた。
私の秘書であり相棒だった番田が亡くなった事を友人を代表して私がSNSで報告する事になった時、多くの人から「会いたかった・・・」「こんなことなら講演会に行けばよかった」と言われた。
そこに悪気はないし、社交辞令で言ってくれている人もいるのだとわかる。わかる、解るのだがそれでも、自分から動けない番田があれほど人を欲していて、遊びに来てほしいと発信し続け、ヘルパーや家族の分のお金も貯めた給料を使って頑張って東京に大旅行に来る事もあって。
会おうと思うなら会える機会はいくらでもあったのに・・・と、ただただ悔しかった。
そういうコメント自体を責めるわけではない。私もコロナで病院に見舞いに行けなくなりその間に亡くなった知人達に会っておけばよかったと後悔している。
人間とは、当たり前に有った存在を失って手が届かなくなってはじめて、その有難さ、価値に気付いてしまう生き物なのだ。
周囲は「店がいつまでも継続してくれていたらそれでいい」「ベッドで寝たきりの人でも、生きてさえくれていればそれでいい」「いつかいこう」と思いがちだ。
しかし本人たちからすれば大事な店やイベントに来てほしいし、会いに来てほしいと思うものなのだ。
周囲の人も、憧れの人も、社会やコミュニティも、職業も、健康も、生活も、今あたりまえに存在している事には価値があり、そしてそのあたりまえは全て期間限定で、決して永くない。
「いつか」が二度と叶わない日は必ずくる。
未来では在り難い、お互いが今在るうちに会いに行こう。
吉藤オリィ
亡くなっていく仲間らと挑戦し、実現させてきたもの
追伸:
今年から新たな試みとして私の自由研究を公開し、アイデア出しなど参加できる「オリィの自由研究部(β)」を実験中。吉藤の活動を応援するよ、報告を聞きたいよと言ってくださる方はこちら。当事者らとの新たな挑戦を発信し、資金は全て研究開発に全額投資していきます。
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