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「表現の自由戦士はエロしか守らない」という主張は差別意識の現れである

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1.表現の自由戦士はエロしか守らない

参議院選で漫画家の赤松健さんが立候補していることについて、最近では「表現の自由」に関しての話題になっています。しかし、赤松健さんの批判的な立場の人には「表現の自由戦士はエロしか守らない」と言った批判が見られるようになっています。

今回はよく見られる「表現の自由戦士はエロしか守らない」について、3点ほど触れておきたいと思います。

2.「攻め」を無くして「守り」はない

まず、当たり前のことから触れておきます。

「エロ表現しか守らない」と揶揄していますが、そもそもの話、「守り」は「誰かが攻めてこない」と成立しません

「エロしか守らない」などという反応は見られますが、漫画・アニメやVTuber、女性モデルなどの多岐に渡るものに対して「性的搾取」「性加害を助長する」「性犯罪を誘発する」など、無根拠な発言を繰り返して、あらゆる表現を攻撃しているから、表現の自由の観点から守らざるを得なくなってきます。

要はそういった表現に対して、無根拠な批判をやめていただければ、そもそも「エロ表現を守る」必要はなくなってきます。

2月24日にロシアがウクライナ侵攻を始めてから、ウクライナは国民総出で武器を持って国土防衛のために戦い続けていますが、こちらもロシアが侵略しなければ、ウクライナは武装する必要もなく、平和で暮らしていけるはずでした。クリミア半島もドンバス地方もロシアが手を出してしまうから、ウクライナは防衛する行動を取るわけです。抵抗せずに降伏してしまうと、ウクライナ国民の自由が失われてしまいます。単純なことです。

3.表現の自由戦士とは何ですか?

主語に「表現の自由戦士」という言葉が使われていますが、この言葉に関する定義付けが曖昧な点も触れておきます。

Wikipediaによると「表現を守ることに情熱を燃やす半表現規制論者」と定義づけされています。しかし、2022年7月現在では「中立性が担保されていない」ことを理由として、修正や推敲を求められているため、あくまでも参考程度で触れるのが良いでしょう。

ニコニコ大百科では「いわゆる表現の自由界隈に対する蔑称」として定義づけされています。児童ポルノに対しては激しく抵抗するが、特定秘密保護法などの表現の自由への制限が懸念される法案に対しては、特に反対の意を示さないように見受けられる人と批判的に表記をされています。

Wikipediaとニコニコ大百科でも「表現の自由戦士」という意味には否定的な意味合いが込められていますが、そのように指摘される人はどういった人であるのか、いまいち曖昧であり、表現の自由を主張している人達を雑にくくっているだけにしか見えないようにも感じられます。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」には、多数の批判の声が上がっていましたが、その当時にライターの赤木智弘さんは「表現の自由戦士はトリエンナーレを批判した」ことを前提として、論座で表現の自由戦士への批判記事を書いていました。

しかし、自ら「表現の自由戦士」を名乗っているネット論客の青識亜論さんは、あいちトリエンナーレに対しては擁護する姿勢を見せていました。以前のアカウントが凍結されてしまったため、過去のツイートを確認することはできませんが「青識 トリエンナーレ」とTwitter検索をすれば、擁護する姿勢を見せていたことが、他のTwitterアカウントから確認することができます。

赤木智弘さんは「表現の自由戦士があいちトリエンナーレを非難」したことに対して、「表現の自由を守らない人だ」と断定していましたが、自ら表現の自由戦士を名乗る青識亜論さんは、あいちトリエンナーレを擁護しているようでは、矛盾が生じているのが明確でしょう。

このような状況になっては「表現の自由戦士」というのは、何を定義しているのか、よくわからないものになります。

おそらく「表現の自由戦士」とくくられている人々に関しても、個々の意見には多かれ少なかれの差異は存在しているものと考えられます。人それぞれには考え方はグラデーションがあって当然ですが、積極的に「表現の自由戦士」という言葉を使っている人は、自分と対立する意見を大雑把に括ってしまっていることが考えられます。

このような状況を考慮すると「表現の自由戦士」と人を名指しする際には、「表現の自由戦士」の定義について、しっかり説明する必要があると私は考えます。


ちなみに表現の自由に関するトピックは私も何度もnoteで書いてはいますが、自ら「表現の自由戦士」と自称したことはありません。仮に「表現の自由戦士」と他人から言われたとしても、私はあいちトリエンナーレを批判的に見ておらず、単純に「勝手にやっていればいい」というスタンスで見ていました。

4.エロを守って何が悪いのか?

次に「エロを守ることが何が悪いのか」ということです。

以前にも触れましたが、表現に関しては、どれが立派でどれが下賤であるのかについては、客観的な基準は存在していません

上のnoteで触れていますが、小野寺系さんのように「ポリコレに配慮した表現」を、あたかも「正しい」と考える人はいますが、これは「小野寺系さんが正しい」と主張しているだけであって、実際は「小野寺系さんがポリコレに配慮した表現が好き」なだけに過ぎません。

人によってはエロ表現で救われる人もいるといますし、自己表現の一環としてエロを取り入れている人も存在しています。自らの意志でエロを表現して、生計を立てている人もいるでしょう。

「エロ」に対する考え方は、人によって異なるものです。蔑んだ目で見る人もいれば、「エロ」こそを生きる糧としている人間もいるでしょう。多様性を謳われる世の中では「エロ表現」を自らの意志で取り入れている方々を尊重するべきかと私は考えます。

5.エロに対する差別意識を露呈していないか?

以上3点触れましたが、まとめるとこのようになります。

・誰かが攻めないと「守り」は存在しない。
・「表現の自由戦士」とは何か?定義は?
・エロを守ることが何が悪いのか?

この3点を考慮すると、やはり「表現の自由戦士はエロしか守らない」と揶揄している人達に関しては、この3点について、どのように考えているのか示していただきたいかと私は思います。

最後に「エロしか守らない」といった発言をする人について、私の考えを言っておきたいと思います。

「エロ表現」とは書かれていますが、そもそも「エロ」と感じるかどうかは、個人の主観によって異なります。「エロ表現しか守らない」とは言いますが、人によってはそもそも「エロ表現」として捉えていないことも考えられます。

そして、「エロである」ことと「良い悪い」というのは、別のベクトルで考えるべきことであるとも考えられます。もちろん「エロ」も「良し悪し」も人それぞれの主観によるものであり、客観的な基準が存在しているわけではありません。

つまり「表現の自由戦士はエロしか守らない」というのは、主語から述語まで、全てが曖昧なものになっているかと考えられます。そんな曖昧な言葉を、いかにも自信満々に断定的に発言して恥ずかしくないのかな…と私は思いました。

あと、「エロ」というものを揶揄する意味で使用しているかと考えられますが、その「エロ」によって生計を立てている人や、エロ表現により救われる人々も多く存在していることを考慮すると、発言者自身が「エロ」に対する差別心が現れているのではないかと感じられます。

エロで生計を立てている人や嗜んでいる人を、合法的に差別したいだけではないでしょうか?

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