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◆読書日記.《小此木啓吾『エロス的人間論 フロイトを超えるもの』》

※本稿は某SNSに2020年7月25日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 小此木啓吾『エロス的人間論 フロイトを超えるもの』読了。

小此木啓吾『エロス的人間論 フロイトを超えるもの』


 日本精神分析学会の元会長によるフロイト思想のその後の「エロス優位的乗り越え」理論の流れを説明する一冊。
 因みに「論」とついてはいるが、本書は小此木さんご本人の理論ではなく、過去の精神分析医らの理論をまとめて紹介している解説本の一種。

 驚くべきは、本書が発行されたのは1970年、何と今から半世紀も前の書籍という事となる。
 という事で本書の内容はあくまで今から半世紀前の研究成果の状態を述べているもので、そのために例えばラカン派などの最近の研究情報等については言及されていない。そこら辺の時代感覚は抑えておくべきだろう。

 本書は基本的には前半でフロイト理論をおさらいし、後半でその理論に対する諸分派からの様々な「エロス的な」異論の流れについて解説していくという内容となっている。
 正直自分としては前半部分はフロイト思想のおさらいをやっているという感じで、さほど初耳の情報はなかったように思う。
 という事で、ぼく的には本書の前半分についてはあまり言うべきことがない。肝心なのはその後半部分だろう。

 後年、フロイト思想のどこに批判が出て来たのか?その批判を、後年の精神分析医らはどのようにして乗り越え、精神分析を再構成しようとしたのか。そして、そのような流れがあった後で、(本書では書かれていないが)「構造主義精神分析」と呼ばれたジャック・ラカンの「フロイトへ還れ」という題目が出て来る事となったわけだ。

◆◆◆

 本書で紹介されるフロイト理論の批判の流れはタイトルにもある通り「エロス」を軸として行われたものをまとめている。その端緒となったのがウィルヘルム・ライヒである。

 ライヒは1920年代になってフロイト批判を始める。
 それは、その頃になって出始めた新タイプのノイローゼ患者の治療に、フロイトの理論では対応できなくなってきていたからだった。

 この「新タイプのノイローゼ患者」とは簡単に言えば自身の感情を抑え込み、自分とは全く裏腹な受け身的な態度で周囲に適応しようとする、「過度に自分を押し殺して感情麻痺的になるまで周囲に溶け込もうとする過剰適応者」とも言えるノイローゼ患者だった。

 こういうタイプの人間は外界の道徳や規則に過剰に適応しようとするあまり、自分の欲求や感情を抑制する機能が過度に発展してしまって、自己の精神を殻で包んだように武装する。これをライヒは「性格の鎧」と呼んだ。

 こういうタイプの患者はフロイト式の自由連想法で話を聞いても「鎧」を外すことが出来ず、患者は過度に従順な態度を崩さず、隙を見せようとしない。

 つまりは、一向に自分を変えようとしないのである。周囲の益のために、自分を殺して、欲求を鬱積させてしまうという病である。

 それが、その当時の社会における自己疎外的な病理だったと言えるだろう。

 フロイト理論というのは、かなり封建主義社会的な道徳を受け継ぐ考え方というものが強い。「エディプス・コンプレックス理論」も封建主義的な家父長制的権威的家族主義が下敷きとなっていて、既に当時の資本主義社会としては古くなってきていた。

 フロイトは理性を信じ、理性によって欲求を抑制しコントロール下に置く事で、利己的な欲求の暴走による周囲への対立を抑え、社会に適用する自我を作る事を考えた。

 その厳格主義的な考え方が、こういった新タイプ・ノイローゼ患者の「過剰適応」的性格には逆方向に働いてしまうとライヒは考えたのだ。

 ライヒの時代に出現し始めた新タイプのノイローゼ患者に必要なのは過剰に抑圧して鬱積してしまっているエロスの解放である。

 社会的道徳を過剰に内面化して自分を抑圧するのではなく、自分の欲求に関しても性的な事についても禁止から解放し、仕事や労働を反動形成としてではなく「昇華」として行う事が求められる。

 それがライヒの考えた「性器的人間」であった。

「性器的人間は、無意識的な近親相姦固着や禁止から解放されているので、どんな罪悪感も恐怖、不安もなしに異性愛の対象と、自律的な一個の人格として、性器愛を共にすることができる。性器性欲以前の口愛、肛門愛、男根愛などの小児性欲は、性器性欲に統合されそのすべてが、性生活の快楽の中で解放される。そしてこのオルガスム体験によるリビドーの周期的な開放は、自我に対する衝動の圧力を軽減し、性器的人間の自我は、衝動の圧力からも、権威の圧力からも自由な自立性を確立している」
   ――小此木啓吾『エロス的人間論 フロイトを超えるもの』より引用

……というのが「性器的人間」のモデルだと言えるだろう。

 ライヒ的には古い時代の性道徳というものが新タイプのノイローゼ患者を生む原因の一つだと考えた。
 そのために一夫一婦制に基づくエディプス・コンプレックスを構成する古い家族主義や純潔思想からも解放を主張する。ライヒは女性の性的解放も精神科医として考えていたわけである。

 このようにライヒの主張は当時の社会的にはかなりラディカルなものであった。

 彼にとって人間が精神を病むのは、患者の個人的問題や、家族の内部に納まりきってしまうような小さな問題ではなかったのである。
 そのためにライヒのラディカリズムは社会批判的にな部分にまで発展していく事となる。本書の孫引きとなるが、引用してみよう。

「個人を対象にした精神療法の社会上の位置ははなはだ失望的なものである。なぜならば、ノイローゼは社会的に大量生産されているからであり、この大量生産に対抗するわれわれの努力の主目標は、ノイローゼの社会的『予防』におかれるべきだ。ところが、現代の社会組織は、ノイローゼの予防を実行するプログラムにとって不可欠な前提条件をことごとく欠いている。今やわれわれは、それらの前提条件を、社会制度やイデオロギーのラディカルな革命によってまず生み出さなければならない(W・ライヒ『性格分析』)」

 ……という主張にまで発展するのである。

 ライヒはマルクス主義に近づくのである。
 医療の個人的な適応ではなく、社会的に性モラルを解放し、医療的な枠組みを超えた、社会的にノイローゼ治療の枠組みを引く「社会変革」への道を主張する。

 このライヒの主張についてはフロイトも困惑したようで、医療従事者がその枠組みを逸脱して社会変革などを主張するようになるというのは、フロイトにとっては医者の分別を越えた傲慢だ、と思えたのである。
 フロイトにとってはあくまで精神分析は医者とい職種が行う医療行為として社会に従事するべきだと考えていたのだ。

◆◆◆

 確かにライヒ思想にはかなり過激な部分もあったが、ライヒの思想によってフロイト思想の問題点もいくつかあぶりだされた点というのも否定できない。

 その一つは、精神病とは決して個人的問題や家族内の問題に収まりきれる問題だけではなく、社会的・環境的な要因というものも影響しており、そのために社会道徳や社会的な枠組みによっても精神病の傾向は違ってくるという事。

 特にこの点について考え社会学的・文明批評的精神分析の分野を切り開いていったのがエーリッヒ・フロムであった。彼は精神分析の視点を社会全体に広げ、「病む社会」と「正気の社会」の特徴とは何なのか?という問題のためにファシズム批判『自由からの逃走』や『正気の社会』といった社会学的精神分析を切り開いた。

 もう一つは、フロイトの主要概念である「エディプス・コンプレックス」的な家族の枠組みも、古い伝統的な家父長的・権威主義的家族観を基準にしているので、時代や国よって変わる家族の形というものに対応しきれるものではないという事。

 この点についてはマリノフスキーが『未開社会における性と抑圧』によって、女権社会においてはそもそもフロイト流のエディプス・コンプレックス理論が通用しない、と批判している。

 またフロイトの問題点の重要な所は「理性による欲動のコントロール」という点が逆にエロスの抑圧に働きかねないという点にもある。
 本書では、特にこの点についてフロイト以後の「エロス的な抑圧を解放するための精神分析の流れ」~つまりは「エロス的人間論」に立脚した精神分析を解説していく事となる。

 例えば、フロイトに直接自説を主張し、後にフロイトと袂を別ったハンガリー学派のフェレンツィ・シャーンドルである。
 フェレンツィはフロイトに次のように自説を説いた(※以下も本書の孫引きとなる)。

「患者は、子供時代に求めて得られなかった親の愛情を、治療者に求めているのです。やさしく世話され、愛情のこもった働きかけを得たいと願っているのです。……そこで、治療者は、患者が熱心に求めているこの親の愛情ややさしい救いが自分に向くのを細心の注意を払って追及し、患者の気持ちに共感せねばなりません。治療者は、自分の人間的な経験や熟練をフルに発揮して、親らしい愛情で患者に応えるべきだと思う(フロム『フロイトの使命』より)」

 フェレンツィの治療態度は、患者の言葉に共感してコミュニケーションをとる「共感伝達者」であったのだ。

 このスタンスはフロイトのリゴリスティックな治療方針とは相いれないものであり、そのためにフェレンツィはフロイトの元を去らなければならなかった。

 だが、フェレンツィによって考えられたこういった共感的・相互的コミュニケーションによる精神分析治療の傾向というのは、その後特に女性治療者によって発展していく事となる。
 その傾向は例えば「知性優位の合理主義から愛情優位の人間主義が、改めて強調されるようになった。ここでいう愛情とは、親子特に母子の間にかよい合うようなやさしい依存的な愛情である」といった特徴が見られる。

 フロイトの治療方針は、患者の自由連想法に対して基本的にあまり介入しないという特徴が見られる。
 治療者は出来る限り患者とのコミュニケーションをとらないように努める。自由連想法の際に、治療者が患者からは直接見えない場所から応答するのはそのためでもある。

 フェレンツィに言わせれば、フロイトは患者との生き生きとしたコミュニケーションを失ってしまったという風にも言う事ができるだろう。

 フェレンツィから始まるこの精神分析治療の動向は、患者と治療者の間に、かつてあったが失われた母子的/エロス的コミュニケーションを復活させる事を原動力として進める事に要があった。

 つまりはこの流れもライヒと同じく「エロスの解放」が重要視されているのである。

◆◆◆

 本書ではライヒ、フェレンツィ以外にもエリク・エリクソン、メラニー・クライン、ヘルベルト・マルクーゼといった、抑圧的自我からのエロスの解放を主張した精神分析の考え方を紹介している。

 著者の考えとしては、フロイト以後の精神分析で「エロス的人間」の重要性が主張されているのは、ひとえに現代社会というのが「過剰抑圧社会」にあるからだという事情を想定しているのではないだろうか。

 社会そのものが抑圧的であればあるほど、社会的な常識人となるには、様々な禁則に従っておのれの欲望をコントロールしていかなければならない。
 フロイト理論は、理知のよってそれを「適切に抑え込む」考えであった。

 それが抑えきれなくなってきているのは、現代社会というものが――フロム的に言うならば――『病んだ社会』であるからだとは言えないだろうか。

 ライヒ思想からすれば、新型ノイローゼの特徴とは、「性格の鎧」によって常に欲動が抑制され、鬱積されたリビドーを抑圧する反動形成として、労働が行われる。
 従って、仕事や労働によって新型ノイローゼ患者は救われないのである。

 それに対して「性器的人間」は「労働や仕事を、エロスの抑圧のない昇華として行う。昇華とは、本来の目標から、社会的に生産的価値のある目標または対象にエロスを向き変える自我の働きである」。
 つまり、社会の抑圧からも解放されているのだ。

 だがこれは、エーリッヒ・フロムも言うように、現代社会は個人の力では「エロスの解放」は果たしきれない問題を孕んでいると言わざるを得ない。

 例えば、現代の資本主義的な考え方というのは、経済の活性化が議論の中心となり、そのために個人の人間性を尊重する視点に欠けているのではないか、というのがフロムの主張の一つだった。

 産業は本来人間のために発展するべきで、現代の労働者は産業の発展のために自らを犠牲にしているのではないか。
 ものを作る(産業)のために、人間が苦役を強いられる。つまり、本来なら人間のためのモノであるはずであるものが、資本主義社会では「モノのために人間が従わされている」という疎外状況が発生している。

 資本主義の考え方では、物が充実すれば人間が幸福になるという意識があるのかもしれないが、そこには個々の人間の心理に対する視点が欠けている。集団というのは、大きくなればなるほど多くの末端労働者を疎外する。末端の労働者に植え付けられる意識は「お前の代わりなんて掃いて捨てるほどいる」という人間軽視の意識だ。

 抑圧的な社会というのは、個人の努力を無制限に搾取する社会とも言えるだろう。

 重要なのは今までの「資本」を中心に考えた社会形態ではなく「個々の人間性」を尊重する事を中心に社会形態を考えるべきだ、というフロムの主張であろう。

 現代のウルトラ資本主義社会は、既に個々の労働者の事情を離れ、人間よりも「経済」や「資本」の発展を考える「脱人間中心主義社会」であるという所に、批判すべき根本がある。人間はシステムを支える機械の一種ではないのだ。

◆◆◆

 本書では冒頭に、ウィスコンシン大学のハーローの実験を紹介している。

 彼は「ダッチ・ワイフ」ならぬ「ダッチ・マザー」を作って実験をしたのだという。このダッチ・マザーを何種類か作り、このダッチ・マザーに赤ん坊のサルを「育てさせて」みたのである。

 赤ん坊サルは例え動く事のないダッチ・マザーであっても、ちゃんと愛情を示して抱き着いたりする愛着行動を起こすそうである。
 ただし、赤ん坊サルはより肌触りがよく、ぬくもりのあるダッチ・マザーを選ぶという。ここから赤ん坊の肌に存在する接触欲求というのは先天的な本能と言えるものだと分かる。

 ただし、このダッチ・マザーはあくまで動く事も赤ん坊に笑いかける事もない。

 当初は肌感覚の満足で充足していた赤ん坊サルも、成長するにつれてこのダッチ・マザーの問題点が露わになって来るという。
 ダッチ・マザーは赤ん坊とコミュニケーションをとることがないので、サルに社会性がまったく育まれないのである。

 このダッチ・マザーに育てられた赤ん坊サルは成長すると、酷い不安と葛藤に襲われ、やがて怒りを爆発させて攻撃的な行動を繰り返すようになる。
 その上、この赤ん坊サルは可哀そうなことに、一切性的な欲求を持つことができなかったのだという。

 つまり「正気」に育つべき母子のコミュニケーションというのは「一方通行」では成立しないのである。

 この本書の冒頭にあげられた研究結果を見ても、本書のラストに挙げられる数々の精神分析理論を見ても、人に必要なのは「相互的なエロス的(※繋がりのある)コミュニケーション」なのだと分かる。

 赤ん坊は、自分が笑えば、自分を守ってくれている母も笑顔を投げかけてくれるという、この双方向コミュニケーションによってエロスを学んでいくのだ。
 コミュニケーションの断絶とエロスの抑圧に晒される人間というのは、心を病む者なのである。
「相互的なエロス的コミュニケーション」というものは、自分が喜ぶ事で相手が喜び、相手が満足する事で自分が満足できる、双方向的なエロスの交流なのである。

 そう考えれば現代資本主義社会的な苛烈な競争社会というものがどれだけ『病んだ社会』の傾向にあるか分かって来るのではないだろうか。
 特に、好景気中の資本主義社会では、競争が相互発展にプラスに働くようになるが、現在のような不景気下での競争社会とは、断絶と抑制が突出し、自己疎外が深刻になる。

 精神病は個人の問題のみに帰されるべき問題ではない。
 刻々と移り変わる社会常識や社会状況によって、その社会の人びとの精神は揺さぶられ続けているのである。
 そう考えれば半世紀前の本書の主張も全く古いとは言えず、それどころか半世紀経ってさえ解決していない『病める社会』の問題を改めて考え直させる示唆に富んだ指摘がなされているとも言えるのではないだろうか。


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