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◆コラム.《樋口克己『図解雑学・ニーチェ』から考える「永劫回帰」思想の解釈ついて――シリーズ"ニーチェ入門"8冊目・補講》

※本稿は昨年2021年4月26日に呟きの形式で投稿したレビューを日記形式にまとめて加筆修正したものを掲載しています。

 樋口克己『図解雑学・ニーチェ』によれば、ニーチェは「仏教はキリスト教の百倍も現実的である」と言ったそうである。

8樋口克己『図解雑学・ニーチェ』

 これは実に面白い事実だ。ニーチェは時おり、自分の著作の中で仏教について言及する事がある。では何故、仏教はキリスト教よりも「百倍も現実的」だというのであろうか?

◆◆◆

 キリスト教は目標を「彼岸」に置いているのであるそうだ。

 現在、禁欲しなければならないのは何故なのか、他者に施しをして自らは我慢しなければならないのは何故なのか。
 キリスト教道徳があるのは、「彼岸」で救済されるためだという。
 現世で不幸であっても、彼岸での救済が約束されればそれでも満足でき、現世の禁欲も納得して喜んで我慢する事ができる。

 だが、それでは彼らに「現世」での救いはないというのであろうか?

 ニーチェにとってキリスト教は「同情の宗教」であるという。
 因みに、ドイツ語での「同情(Mitleid)」の意味は「苦しみ/不幸(Leid)」を「共に(Mit)」するというニュアンスがあり、これを「共苦」とも言うのだそうだ。

 キリスト教徒は「同情」によって他者の苦に「感染」する。
 それによって「生命感情のエネルギー」を損なっていく、というのがニーチェの考え方だったらしい。

 そういったキリスト教に対し、仏教は現世の「苦」から解放されるために修業をするという、樋口克己によれば「宗教というより衛生学」なのだという。

 ニーチェはつまり、キリスト教のこういった不健康さに対して批判を行っていたのだろう。

 「彼岸」で救済されれば、現世で不幸であっても問題ないという事か?そういう考え方に、反発していたのかもしれない。

 ニーチェが生きた、科学がやっと宗教の権威を乗り越えようとしていた時代(神は死んだ!)、けっきょく科学にとってみれば「彼岸」などは迷信なのである。
 教会は世俗権威と化し、宗教的な信心が揺らいでいた。――そんな時代に、生きている間はずっと禁欲を、そしてキリスト教的な道徳を守らねばならない、という事にニーチェは疑問を抱いていたのだろう。
 キリスト教の言う「彼岸」などなかったとしたら、いま自分(ニーチェ)が抱えている病苦、絶え間ない頭痛、世間からの冷遇は何なのか。何の意味があるのか。――不幸に対して唯々諾々と従っているなどというのは、全く何の意味もないではないか!?

◆◆◆

 ニーチェはキリスト教的な「彼岸」を否定する。「でっちあげだ」とさえいう。
 この考え方というのは、ニーチェの「永劫回帰」思想にも繋がってきそうである。

 ニーチェはとにかくキリスト教の「彼岸での救済」という事を否定した。では、仏教についての死生観は、どうだったであろうか。
 ニーチェの仏教への近寄りかたから考えると、「永劫回帰」も仏教の輪廻転生思想から影響を受けているような気がしないでもない。

 だが、恐らく輪廻転生と永劫回帰は似て非なるものだ。

 輪廻転生の場合は、人間は死ねば他のものに生まれ変わるという考え方だ。
 だが、永劫回帰は、他者への生まれ変わりなどは否定している。

 人生は、どこまで行っても「私」の繰り返しである。それが永劫回帰思想だ。
 死んだ後も、また再び「何一つ変わらない全く同じ人生が再び繰り返される」だけだ――というのが永劫回帰だ。

 死んだ後に、現世とは別の「彼岸」も無いし、他の人に生まれ変わって別の生を生きる機会なども無い。

 「わたし」はどこまで行っても「わたし」なのである。

 われわれが生まれてくる前も、死んだ後も「わたし」は「わたし」以外の何者にもなれないし、別の環境(彼岸やあの世や死後の生や天国)が待っている事もない。
 どこまで行っても、「いま、ここで、私が」が繰り返される。
 「死ぬ事」は、人生がリセットされる事ではないのである。

 つまり、永劫回帰では「死んだら何もなくなる」という考え方さえ否定される。

 例えば、人生が辛いからと言って自殺したとしても、次に待っているものは「天国」でも「転生した異世界」でもないのである。
 死んだら、また再び全く同じ自分の人生が一から始まる。
「人生が辛くて、あげく自殺をしてしまう」という今までの自分の人生が、そっくりそのまま再び繰り返される。そこに救済はない。――それが「永劫回帰」という考え方に潜んでいる「重さ」なのである。

 「死んだらリセットされる」「死んだらそこで何もかも終了させる事ができる」という考え方は、「永劫回帰」思想によって否定される。

 そういう自分の辛い人生は、死んだとしても、また一から同じことをやり直さなければならなくなる。
 だとしたら、どんなに足掻いてでもこの人生をどうにかしなければならない、という考え方にはならないだろうか?

 「わたし」は、死んでも、生まれ変わっても、別の人にも別の人生にもならない。「あの世」にさえも行かない。「死んで何もなくなる」事さえもない。
 また今までと全く同じ「わたし」が一から始まるのである。

 だから「現世」を大事に、「いま」を大事に、「自分」を大事に、――そう、重く受け止めて生きなければならないと思えるのではないか?

 人生が苦しいのだったら、死後ではなく「いま」救済されねばならない。
 「いま」の人生を変えねばならない。
 「いま」のわたしを変えねばならない。――
 でなければ、「永劫回帰」する世界観の中では、「わたし」は永久に救われないのである。

 つまり「永劫回帰」思想という考え方は、宗教思想にある「あの世/天国/彼岸/生まれ変わり」という考え方を否定し、その代わりに「いま/わたし/現世」の重要性を実感して生きるための人生を解釈する一思考方法だとも言えるのではなかったか――。

 考えてみれば、そもそもニーチェの思想は、現世で「今の私だけの人生」を救済するにはどうすればいいのか?――そういう思考の元に成り立っている思想でもあったのではないかと思うのである。


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