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◆読書日記.《三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻》

※本稿は某SNSに2021年8月3日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 最近3巻が出たばかりの三島芳治のマンガ『児玉まりあ文学集成』1巻読みましたよ~♪

三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻

<あらすじ>

 文学部に入部希望している笛田君は、文学部唯一の部員であり完全無欠の文学少女・児玉まりあから入部すすための試験を出されていた――。

 「今日はたとえの練習に行きましょう――私をたとえてみて」。

 笛田君の試験は今日も続く。

 というお話。


<感想>

 本作を読んでまず興味を惹かれるのは、この人の不思議なマンガ感覚である。

三島芳治『児玉まりあ文学集成』1巻・中身の絵

 どういうペンを使っているのか?最初に連想した類例は唐沢なをき先生の『怪奇版画男』である。

 ……つまり、版画のように削られたかのような荒々しい不統一で太い描線というのが、この人の特徴なのである。

 線の強弱はあるものの、決して丸ペンのように流れるような抜き‐入りの効果が出ておらず、線自体の輪郭もふらふらとしており、滲み、擦れている。

 最初は竹ペンを使っているのだろうか?とも思ったのだが、竹ペンでこれほど不器用な使い方はしないだろう。

 しかも、人やものの輪郭線はアニメ画のように線がクローズドにはなっておらず、所々で途切れいるのである。
 やはり、ぼくの印象では『怪奇版画男』である。

 この人は、確かにいわゆる「画力のある人」ではない。
 時々、パースを間違えていたり、人物と背景と物の縮尺を間違えていたりする所が見受けられるからだ。
(この人の初期作がWeb上で見られるのだが、それを確認してみても、この人の基礎画力がそれほどでもないという事が分かる)

 ただ、そういう違和感さえも、この描線も含めてどこかこの漫画の不思議な雰囲気に寄与している風に見えるので、この点は必ずしも欠点とはなっていないのかもしれない。

 なぜ、このマンガ世界は擦れ、滲み、ズレがあるのだろうか?

 まりあは言う。
 「彼(笛田君)は目がわるいの」と。
 「眼鏡がないと教科書も読めないし、人の顔もぼんやり」
 「でも面倒がって眼鏡は持ってきてない」
 「でも だから 彼は 別の眼で視ているの」

 児玉まりあは言う。
 「笛田君にはね 私の事が髪の長い美少女に見えてるんだって」と。

 それを聞いて友人は驚く。
 「えっ、まさかだましてるの?見えないからって…」と。

 児玉まりあは「美少女」かどうかは分からないが、少なくとも本書の表紙にも描かれているような「髪の長い少女」ではなかったのである。
 つまり、表紙に描かれた「児玉まりあ像」も、本編に描かれている「児玉まりあ像」も、全て「現実の児玉まりあの姿」ではないのだ。

 笛田君は、目が見えにくいのにわざと眼鏡をかけずに「別の眼」で世界を見ている――。

 笛田君は、児玉まりあを自分の理想に近い「長髪の美少女」というイメージをくっつけて、視覚を「訂正」しているというのである。
 そのうえで、その「想像力を加えられて笛田君なりの理想の世界に訂正された世界」のイメージを楽しんでいる。

 ――その笛田君に、文学の技術を様々にレクチャーしていく事で、彼のイメージを更に強化しようとしているのが児玉まりあの狙いだったのである。

 つまりこの作品の「擦れ、滲み、ズレがある世界」は、笛田君が想像力によって作り上げたイメージを表している――からこその描かれ方だったのではないだろうか。この作品に描かれているものはすべて「笛田君の見ている世界」を基準にしているのだ。

 そして、彼らの「文学的お遊び」とは、そういう事であり、詩や小説を書いたり読んだりする事を指すのではないのである。

 だから、児玉まりあと笛田君は、延々と今日も「しりとりで語彙力をきたえるの」とか「今日は記号の研究をします」等とやっている。それが彼らの「文学」なのだから。


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