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◆レビュー.《アニメ『スーパーカブ』は「ヘン」なアニメである》

※本稿は某SNSに2021年9月14日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 2021年春アニメ、アニメ『スーパーカブ』全12話、観了。

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 という事で、この作品がどのようなアニメであったのかという事を以下、総括的に論じてみようと思う。

※いちおう先に断りを入れておくが、自分は原作の小説は読んでおらず、それについての設定や描写などについての知識は全くないに等しい。そのために以下はあくまでアニメ作品としての『スーパーカブ』の世界観の内部の話題と考えて頂きたい。
※さらに断っておくならば、ぼくはこのアニメはさほど評価は高くない。なので以下、誉め言葉らしきものについては出てこないと思うので、そういうものを期待している方は読まないほうが無難かと。

 結論から言えば、このアニメは圧倒的に"ヘン"なアニメであった。

 どこがヘンなのか? 一言で言えば「主人公の女子高生から徹底的に"女性性"が取り除かれている事」である。
 この作品の主人公には「女の子らしさ」というものが与えられていない。「男性的」でさえない。そういったハッキリとジェンダーを指し示す要素を、主人公はほぼ与えられていないのである。
 以下この作品の主人公の、そういった「無性性」をピックアップして見てみよう。


◆◆◆

1)名前の無性性
 彼女の名前は「小熊」である。普通の人だったら、この時点で「女の子にしては珍しい名前だな」と思うだろう。
 お世辞にも、女の子らしい名前ではないからだ。
 例えば、「田中小熊」や「小野寺小熊」と書いて、これが男性名なのか女性名なのかハッキリと判断が付くなどという人はいないだろう。

2)セリフの無性性
 主人公には、セリフに関しても「女の子らしさ」「女性らしさ」というものが感じられない。
 例えば「〇〇だ」「それは〇〇だと思う」「それは賛成できない」……といった、女性でも男性でも、どちらでも使いそうなセリフ回しはするのだが、「〇〇よ」「それは〇〇じゃない?」「それは賛成できないわ」といった、アニメやマンガで良く見られる「女性的なセリフ使い」「女性を思わせるセリフ」を一切使わない。
 これは、主人公と最初に友人になった礼子が、そういった「〇〇だわ」とか「きっと〇〇よ」といった、いかにも女性らしいセリフを使っている事からも、その「無性性」がいっそう際立って聞こえてしまうのである。

3)一人称の無性性
 主人公の無性性は一人称についても一貫している。
 つまり、アニメや漫画などでは良く使われる、女性を表す一人称「あたし("わたし"ではない)」を使っておらず、また男性的な「ぼく」「おれ」なんかも使っていない。
 小熊の使う一人称「私」はこの場合、「無性的」なのである。

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4)趣味の無性性
 これは、本作のメインとなる「スーパーカブ」にだけついてみれば、非常に男性的な趣味だと言えるだろう。
 だが、本作の主人公の趣味趣向と言うものには、非常に几帳面なほどに「女の子」を思わせるものが取り除かれているのである。

 ・部屋のカーテンや壁紙やベッドカバーや絨毯などの色やデザイン、そういったものが全て、女の子らしさのない無機質なものに限られている事。
 ・その他のインテリア、家具や小物、雑貨、コスメやお化粧品、壁紙に至るまで、主人公の部屋にあるものの一切に女の子らしさを感じさせる色やデザインのものが見当たらない。
 ・その他の娯楽についても、婦人雑誌やファッション誌、少女マンガ、アニメや映画やアイドルなどポスターなども一切ない。

 「何も趣味がない」からなのは良く分かるのだが、お金もなく趣味もないからと言って、全く自分の娯楽に使う何ものをも持っていない人間などはいない。それだけでなく聞いている音楽やゲーム、テレビ番組も見ている気配はない。彼女が室内で楽しんでいるのは「ラジオ」くらいなものであった。
 非現実的なまでに、不自然に思える程に「なにもない」のである。

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5)服装の無性性
 主人公の普段着についても、女の子らしさを感じさせるものがない。
 赤、ピンク、暖色系の蛍光色など……そういった色的な趣味だけでなく、スカートさえ制服以外は来ていたのを見ない。
 例えば、最終回で見られる主人公の服装は灰色のパーカー、モスグリーンのTシャツ、紺色のジーンズといった、男性でも女性でも着るような、これも全く無性的なものであった。

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◆◆◆

 ……と、これだけ羅列して見ても、異常と思われるほどの徹底した「ジェンンダーを意識させない無性性」という特徴を主人公に与えているのが本作の特徴なのだ。

 女性的な女の子でないばかりでなく、男性的な女性、でさえもないのである。

 ではなぜ本作の主人公は「設定上、女性」であるにも関わらず、それ以外は徹底して女性的な要素を排除しているのだろうか?

 では、生物学上は女性だが「無性的な性格を持っている事」が物語のプロットに、何かしら必然的に絡んできているだろうか?

 ないのである。

 例えば、この設定であれば、主人公がトランスジェンダーであるという事を前提にした物語づくりというものも充分にありえるだろう。
 だが、本作にはそういったくだりは出てこないし、そういうテーマ性と本作とは、全く何の関係もないだろう。本作の主人公には、トランスジェンダーという枠組みさえも与えられていない「無性性」なのである。

 あえていうならば、主人公にはスーパーカブに会うまでには「何もなかった」……だからこそそんな何もない自分にとってスーパーカブは「救い」となったのだ……というプロットにこの「主人公の無性性」というのはかかってきそうではある。

 だが、「何もない」というのであれば、主人公の「女性性」まで無くす必要はない。
 「(没頭できるものが)何もない」所に、「スーパーカブ」という《没頭できるもの》が入ってくるから「趣味物語」としての物語が推進するのだ。

 「(財産も頼れる親族も女性らしい事への興味も生活の中にも)何もない」という、もはや趣味どころでは取り返しのつかない所までに何もかも喪失している人間の趣味に「スーパーカブ」が一つ入ってきた所で、それが主人公の「救い」に思える視聴者がどれほどいるのだろうか?

 つまり、本作の主人公の設定は「何もかも"無くし過ぎている"」のである。
 物語の必然性を大きく超えて、全く必要のないほどに「何もない」のが、本作の主人公なのである。

 こういう設定は、少なくとも昨今のアニメや漫画で見られる「女子高生の趣味ストーリー(ゆるキャン、プラオレ!、放課後ていぼう日誌、恋する小惑星などなど…)」を描いた作品としては、随分と珍しいものだ。

 ――だから、ぼくは本作を「圧倒的に"ヘン"」だと評したのである。

◆◆◆

 本作の原作を読んだ人たちの感想に多く見られるのは「小熊ちゃん(※本作の主人公)の内面はまるでオッサンのようだ」といったものである(因みにぼくの友人は「女子高生の皮をかぶったオッサン」と評していました/笑)。

 それも無理のない事ではないかと思う。
 ぼくでさえ、原作よりかはモノローグが少ないであろうこのアニメを見て「オッサンみたいだな」と思ったほどである。

 「何一つ女の子らしい要素を持っていない無性的な主人公」に、「スーパーカブ」という、お世辞にも女子高生らしくない要素がガツン、と入り込んでそれにはまり込んでしまったのである。

 いかに女性/男性の区別のないセリフ回しを採用していたとしても、例えば「やはりスーパーカブは最高のバイクだ。これほど便利な乗り物は他にないだろう」というセリフがあれば、少なくとも花も恥じらう美少女アニメの女子高生が喋っている事と思えるわけもない。
 アニメでは少なくとも、女性声優を使って女の子の声を出し、女子高生らしい顔をしている人物が喋っているから、かろうじて「女の子」と認識しているだけなのである。

◆◆◆

 逆に言えば、何故この作品の主人公を「女子高生」にしなければならなかったのだろうか?
 上記、述べてきたように、女子高生にした事については物語的な必然性は非常に低い。
 理由は、他にあるだろう。

 主人公の役割と言うのは、何だろうか?

 一つは、視聴者を物語世界に引き込むためのけん引役としての役割があるだろう。
 だから、主人公を誰にでも当てはまるような特徴のない人物にしたのだろうか?
 否。本作の主人公は「特徴のない」どころではなく、「特徴がなさ過ぎて逆にそれが特徴になってしまっている」ほどの人物なのだ。

 もう一つ、よくある「主人公の役割」というのは、「作者の自己投影」としてのキャラクターである。
 「スーパーカブ」というこのマニアック素材の世界を書いているだけに、本作の「主人公の役割」についてはこちらのほうが関係しているのではないかと、ぼくは見ている。

 作者のトネ・コーケン氏は男性である(インタビューでも一人称を「僕」と言っている事からも、恐らく間違いないであろう)。

「男性の自分が、「スーパーカブ」というどう見てもオッサン臭い渋好みの趣味を、肯定的に見てくれる美少女たちと楽しくスーパーカブ・ライフを違和感なく楽しむシチュエーション」というのを、遡及してストーリーのプロットとして成立させるためには、中身がオッサンだと気付かれないギリギリのセリフや身なりを纏う事で、自分が女子高生に偽装しなければななかったのではないか。

 スーパーカブと共にスーパーカブ趣味の自分を肯定的に受け入れてもらえる女子高生グループの中に自分を紛れ込ませた……そういう、物凄く個人的な趣味のユートピア世界を成立させるための媒介役としての「無性性の主人公」だったのではないか。

 そういう自分の理想を実現させるための変身願望としての、ギリギリ最低限自分が偽装できる範囲での女子高生の姿としての「無性性の主人公」だったのではなかったか。

 そういった著者のある種の願望が反映されているのでなければ、これだけ徹底的に無性的な特性を与えられている主人公の事を「オッサンぽい」と感じる読者や視聴者がいるとは思えないのだが……実情は如何?


◆◆◆

 別にそれほど評価もしていない作品について語っていたのに、ついつい話が長くなってしまった。うーん、いまムダにカロリーを消費してしまったキブン。

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