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◆読書日記.《模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』》

※本稿は某SNSに2022年2月25日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


◆<著者と本書の概要>◆

 模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』読了。

模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』

 昨年、ジャケ買いして大好きになった謎の漫画家・模造クリスタルの商業出版初の短編集である。思えば、ぼくの中で昨年最も評価の高かった漫画家さんはこの"もぞクリ"さんだったかもしれない。

 ギャグ漫画かカートゥーン・アニメのようなちんまりした頭身の低いキャラクターがわちゃわちゃと動いて活躍するのだが、時に挑発的なスタイルをとったり、時に哲学的・寓意的なテーマを入れたりしながらも、最後はいつも何故か物悲しいラストを迎える事となる……という、その絵柄の見た目の可愛らしさとはまた違った個性を持っていて一癖も二癖もある書き手だと思う。

 異才である。

 模造クリスタルはWebと同人誌を中心に活動している作家なので、まさに「知る人ぞ知る」というべき作家で、ぼくがジャケ買いして出会ったのも奇跡的な事であったと思う。

 しかも、この人は同人誌作家らしく詳しいプロフィールが公開されておらず、Twitterやnoteなど漫画家の「素の声」が聞けるようなメディアにも手を出していないようである。
 インタビュー的なものさえほとんど見かけないので、この人の素性は全く明らかになっていない。

 ぼくの中では「謎の作家」なのである。

 ちなみに、この人は2008年に『金魚王国の崩壊』というWeb漫画を自身の特設ページで連載し2013年に「このWEBマンガがすごい! 2013」にて1位を獲得している。
 この『金魚王国の崩壊』は一時期Web掲示板などで話題となり、ぼくも1~2話ほど読んだ事があったのだが、それがこの模造クリスタルさんだとはつい最近まで気づかなかったのである。

 さて、今回取り上げるのは、この模造クリスタルによる商業出版でのオリジナル短編集である。
 商業出版のほうでは長編連載作品ばかりが出されていたので、模造クリスタルの短編が商業出版にて出るのは初という事になるのかもしれない。

 掲載されている作品は4つ。
 いずれも同人誌で出されたもので、冒頭の「カウルドロンバブル毒物店」は2012年、続く「スターイーター」は2014年、「ザークのダンジョン」は2015年に発表。いずれも同人誌に掲載されたものに加筆修正されたものが本書に収録されているようである。そして、4つ目の短編「ネムルテインの冒険」は描きおろしとなる。

◆『ザークのダンジョン』

 ぼくは本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』を読んで、しばらくのあいだこの作品をどう評価するべきなのか考えあぐねていた。

 ぼくはこれまで模造クリスタルを『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』のように「悲劇を描く作家」だと思っていたので、本書のように明確に「ハッピーエンド」とも「バッドエンド」とも悲劇とも喜劇ともつかない話ばかりが来たというのはなかなか意外だったのだ。

 この作品集は『スペクトラルウィザード』の胸の内をひっかき回してくるような感性の物語とも違えば、『ビーンク&ロサ』の人を食ったような寓話や挿話の数々を入れてくる挑発的なスタイルとも違っている。

 本書収録の『カウルドロンバブル毒物店』や『ネムルテインの冒険』を見ると一見、ごく普通のファンタジー作品のようにも思える。
 しかし、最近マンガ業界にもアニメ業界にもあふれかえって飽和状態になってしまっている安易なファンタジーRPGパロディ作品とは確実に違う、このざわざわとした読後感は何だろうというのがぼくの中での大きな「謎」で、それを解決しない事には本作の評価というのは下せないと思ったのである。

 この謎を解く重要なキーとなったのは本書の3つめ短編『ザークのダンジョン』であった。

 ぼくがこの短編集の中で最も好きな一コマで、ヒリヒリとするような、悲しみとも痛みとも不安ともつかない、途方に暮れてしまうような寄る辺なき感覚を覚えたのがP.201の最初のコマだった。

 「驚くべきことに地上では本は大して役に立たない紙切れだった」

 『ザークのダンジョン』で主人公「グウナ」は、人から「ザーク」と呼ばれる地下に住むアリのモンスターの少女だった。

 グウナはずっと地下ダンジョンで生活しており、彼女の好きな本の中に出てくる地表の世界に憧れを募らせていた。

 そんなある日、グウナはダンジョンに迷い込んできた人間の冒険者から地表への地図を貰い、それを頼りにして遂に地表に出るのである。
 彼女が初めて地表に出た時の一コマは非常に印象的だ。
 
 ――「空だ!上に何もない!」

 地表に出たとたん、コマの枠線は消え去ってしまう。
 ここには、今まで彼女の行動を制約していた壁も天井もない、どこまでも広がる空間があったのだ。
 だが、枠線を失ってしまったコマは、どこかふわふわとしていて、まるで夢の中のように掴み処のないような、不安定な感じがしないでもない。

 彼女は地下から一生懸命持ってきた数冊の本を地表へ上げる。

 するとしばらくして、彼女は自分が一生懸命に持ってきたこれらの本が、地表では全く価値のないものだと知る事となる。

 「驚くべきことに地上では本は大して役に立たない紙切れだった」

 いまいち表情の読み取れないザークだが、その時のグウナは呆然としているようでもあった。
 そこからの彼女の内面は推測するよりない、が……。

 グウナにとって本とは、自分に夢と希望を与えてくれる「使用価値」があり、それを物とも交換できる貨幣的な価値も備わる「交換価値」もある、特別な価値を持つものであった。

 グウナにとって本は、自分の生活の中心となって存在している特別なものだったのだ。
 グウナが数冊の本を大事に抱え、一生懸命地表にまで持ってきたのは、それが地表でも同じように「特別な価値」があると信じていたからだった。

 だが、彼女が自分の人生の中で最も特別な価値を感じていた本は、地表では「紙切れ」でしかなかった。

 希望をもって訪れた地で最初に気づいたのは、今まで自分が重要だと思っていた物の価値を根底から否定されたという現実だったのである。

 その事を知った彼女は何をしただろうか?

 本の世界に書いてあった森だ!小川だ!草原だ!と心躍らせて広大なる世界に足を踏み出す……となれば、ごくごく普通の少年マンガ的なストーリーで、間違いなく「ハッピーエンド」と呼べる終わり方になっていただろう。
 そのように「書を捨て街へ出よう」だったならば、まだ希望の残る終わり方だったかもしれない。

 だが、彼女はいったん自分の好きな本の世界に戻るのである。

 グウナは自分の持ってきた本の一冊を手に取り「ああ……これは私が一番好きな本。小川を超えて緑の森に向かう少年の物語だ……」と独白する。
 グウナのすぐ目の前には、彼女があこがれた現実の小川や森が広がっているのに、その目の前で彼女は森へ向かって冒険する「物語」の世界に没頭するのである。

 ぼくは、このグウナの「弱々しさ」をひしひしと感じて、悲しくて仕方なくなるのだ。

 本が地表では「紙切れ」でしかなかった事を知ったこの時のグウナは、この急激な価値の転換に、自分の感情や思考がついていけずにキャパオーバーになってしまっているように見える。

 全くの未知の価値観が支配する世界。自分が急に一人ぼっちになってしまったかのような心細さ。この寄る辺なき不安感。

 グウナが現実の小川や森を前にして「小川を超えて緑の森に向かう少年の物語」に戻ったのは、かつての自分の安住の地であった「ダンジョンの世界の価値観」に戻って心を落ち着かせようとしたのではないだろうか。

 例えるならば、全く価値観も言語も違った外国に一人で移住してきた少女が、心細くなって故郷の日本で大好きだったマンガを読み返して心を落ち着かせようとするような感覚に似ているかもしれない。

 安住の地を去り、新しい生活に身を投じようとする時の気持ちというものは「わくわくする」とも「不安だ」とも言える両義的な感覚だと言えるのかもしれない。

 これは、安定的な生活や安定的な関係性に訪れる変化には付いて回る両義性ではないかと思う。

 例えば、「卒業」などはそういったものの代表例だろう。
 学園生活という安定的な生活サイクルが終了するという事は、自分を縛っていた決まりが無くなって生活を一新できる「解放感」を意味しているポジティブなものであると同時に、それまで仲良くしてきた仲間や慣れ親しんできた校舎やいつも楽しみにしていた年間行事との「別れ」を意味しているネガティブなものでもある。
 「卒業」によって人は一つ成長を遂げるかもしれないが、それによって何かしら「喪失」しているものもあるのである。

 「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」……これらに訪れる変化というものは、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

 本書の4つの物語には、こういった「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちは何かを「喪失」する……という特徴がないだろうか?
 ……これは、本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも同様にみられる構造であった。

 という事でぼくは今回、本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』の4つの短編の構造を《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという視点で読み解いてみようと思ったわけである。

◆『カウルドロンバブル毒物店』

 この短編では二段階の「安定的な関係性に訪れる変化」が発生する。

 最初の変化は「ゴーレムの召喚」である。
 閑古鳥のなく店の状況を変えるために、このお手伝いゴーレム「インゴット」は召喚される。

 この段階で訪れる変化には、店の主人・ウェザリンの生活を活性化させる事が期待されるワクワク感を伴っていた。
 だが、この期待は「役立たずのゴーレム」によって挫折させられる。
 これによって失われたものは、ウェザリンの静かなお店でお菓子を食べるだけの静的で閉塞的な生活である。

 そして二段階目の「安定的な関係性に訪れる変化」は、インゴットの消失と再召喚である。
 これによって失われたものは、インゴットの記憶であった。

 しかし、インゴットがいったん消失し、その記憶がなくなってしまってからウェザリンが気づいた事は、あのゴーレムとのドタバタした日常は「静かなお店でお菓子を食べるだけの静かな生活が失われてしまった」のではなく、その実、そのドタバタした毎日も新たなる掛け替えのない「安定的な関係性」だったという事だった。

 この2回の「安定的な関係性に訪れる変化」は、いずれも「インゴットの召喚」によって訪れているのである。

 この短編で反復される「安定的な関係性に訪れる変化=インゴットの召喚」では、一段階目と二段階目で、いずれもウェザリンが違った受け止め方をするのが印象深いし、そこに作者の描きたかったものがあったのではないかとも思う。

 一段階目では「ワクワク感とその失望」があった。
 二段階目では喪失感を抱くが、その喪失感によってウェザリンがインゴットの存在を大切なものだと実感するのである。

 ウェザリンはインゴットとの関係を再構築するために、記憶を失う前にインゴットに言った「あんたとは話が合いそうね…」という言葉を、ラストにもう一度つぶやくのである。

 因みに、ぼく的には「あーあ、私は一生懸命やってるのにどうしてうまくいかないのかしら」と嘆くウェザリンは、仲間のために一生懸命に頑張っているのにどんどんと自らが不幸になっていく事に嘆く『スペクトラルウィザード』の魔女・スペクトラと同じ遺伝子を持ったキャラクターなのだと感じる。
 グランマから仕事の事を尋ねられ「なんだかいろいろあって自信なくしちゃった。昔は好きだったのに今ではよくわからないみたいな……」というウェザリンの嘆きは、昔は「今よりずっと元気」で「生活も生き生きしていた」のだが「最近はどうにも体が重くて力が出ない」というスペクトラの嘆きと同じテーマを生きているキャラクターなのだろうと思う。
 この共通性は、やはり模造クリスタルにおける好みが反映されているのであろう。

◆『スターイーター』

 本作はぼく的には最も「模造クリスタルらしい作品」だと思った一編である。

 ナイーブで傷つきやすい内面を持った少女。
 可愛らしい見た目なのに目に光はなく、世の中の全てが彼女を傷つけるようでもある。
 世間や世の中といったものからの乖離感。
 寄る辺なき孤独感。
 「普通の人」からは否応なく浮いてしまう、この人生の行き辛さ。
 ――そういった彼女の悲しみというのは、やはり『スペクトラルウィザード』や『ビーンク&ロサ』にも共通する特徴でもあると思う

 彼女は物語の冒頭から既に葛藤を始めている。
 「私は変わるの……」と決意し、その決意も数瞬後には「やっぱり無理なの……」と挫けてしまいそうになる。
 彼女は水無月さんという知り合いと(おそらく初めて)会う事で「変わる」事が出来ると考えている。しかし、水無月さんから「会うなんてやっぱりできないよ……」と断りの電話が来て、その決意は結局挫折に終わる。

 きりんちゃんは落ち込みながらも「これでよかったの……これでまた何もかももとどおりなの……」と独白する。

 本編における「安定的な関係性/安定的な状況」というのは、きりんちゃんが自分の殻に引きこもり、根暗な自分のまま「変わらないでいる」という事なのである。

 そんなきりんちゃんにおける「安定的な関係性」に訪れる変化というのは不安ちゃんという友人が出来たという事であった。
 それは、たまたま知り合いになったアイドル・アリカちゃんから言われた「落ち込んでいる時にこそ他の落ち込んでいる人をはげましなさい」という助言に従った、小さな一歩であった。

 しかし、それによって彼女の根暗な性格は変わらなかった、が、確実に彼女の「安定的な関係性」は変化を起こしていたのである。

 ガミガミ言ってはくるが、不安ちゃんは確実に、きりんちゃんに声をかけて話してくれるようになった。
 彼女は内心、はげまそうと声をかけてくれたきりんちゃんに感謝していたのである(その証拠に、のちに彼女はきりんちゃんに「はげましてくれたお礼」としておまじないをかける事となる)。

 彼女はすぐに諦め、気落ちしてしまうが、彼女が「変わろう」と思って行った小さな行動は、何かしらの変化を起こしていた。

 そんな彼女の少しずつの「変化」によって、最終的に「喪失」したものは何だったのか?

 彼女は友達の不安ちゃんとお別れする事となる。

 月橋きりんちゃんにとって「安定的な関係性に訪れる変化」とは、勇気を出して明るく振舞い、落ち込んでいる人を励ます事であった。それによって得たものは「不安ちゃん」という友人であった。

 ただし、新たに友人を得るという事は、その友人を失う可能性をも得る事でもあったのだ。
 きりんちゃんが最終的に「喪失」したものは、その「不安ちゃん」だった。

 逆に、不安ちゃんにとっても「安定的な関係性に訪れる変化」というものはあった。
 それは魔女の才能を開花させ、人里を離れて暮らす事である。
 不安ちゃんは人里を離れて暮らす事によって「人から嫌われる事」が減って、彼女の感じる「寒さ」から解放される。
 それによって「喪失」したものは友人であった「きりんちゃん」であった。

 不安ちゃんは「人から嫌われる/人からの悪意を感じる」機会をなくすために人付き合いを絶つことにする。
 きりんちゃんは、友人ができる事で初めて友人から嫌われる可能性も友人とお別れする可能性も出てくるのだと知る。

 不安ちゃんにとっての「変化」は、人から離れる事で「人から嫌われる可能性」を避ける事であった。
 きりんちゃんにとっての「変化」は、人に近づく事で「人から嫌われる可能性」をも自らに引き受ける事になるという事であった。

 こうして見てみると、彼女二人の「変化」は、表裏一体の関係にあったようにも思える。

 学校でのきりんちゃんは、また再び根暗な一人ぼっちの女の子に戻ってしまったようである。
 だが、その「喪失」は必ずしもネガティブなものばかりではなかったと思う。
 きりんちゃんの元から「友人」は去ってしまったが「友情」はその手元に残るのだから。

「おちこんだときにはほかの人をはげましなさい。それでもおちこんだときはスターイーターがあなたをはげます」

◆『ネムルテインの冒険』

 所々に詩が入ったり、「やみくも谷」や「嘆きの地底湖」などどこか象徴的とも思えるような地名が出てきたり、と何かを象徴しているかのような寓意的な話なので、何か深い意味があるのではないかと勘繰りたくなるような話である。

 だが、ぼくが思うに本作は本書の中で最もシンプルな構造の話なのではないかと思うのだ。

 これまで説明してきた3篇の短編は全て《「安定的な関係性に訪れる変化」によって登場人物たちが何かを「喪失」する物語》であったのに対して、本作は「安定的な関係性に訪れる変化」を拒絶する物語なのである。

 本作で「安定的な関係性に訪れる変化」を拒絶しているのは龍のネムルテインである。
 本書の表紙の絵を見ても、本作の「主人公」となるべき焦点が当たっているキャラクターは「勇者サグテ」ではなく、龍のネムルテインである事は明白である。

 彼女はサグテに懐いて「どこまでも行こう!二人で地球の反対側まで!」と、いつまでもどこまでも冒険がしたいと希望するのである。

 彼女のこの思いはやや一方的で、しばしばサグテの思いも無視して暴走する。
 それどころか、サグテの健康が思わしくなくなったとしても、「サグテとの冒険」が続けられるのならばそんな事はあまり気にならないとさえ思っているふしが見られるほどなのである。

 サグテはこの冒険の目的はグレーワイバーン・キリの救出だと言うが、ネムルテインはそれを不満に思うのである。
 「ねえその子が見つかったらさ、私との冒険はどうなるの」と彼女は明確な不満を漏らすのだ。

 普通の冒険は、何かの目的を達するための手段であるにすぎない。
 だがネムルテインにとって冒険は、それ自体が目的になってしまっているのである。何故冒険するのか、冒険するために冒険するのである。言わば冒険する事が自己目的化してしまっているのがネムルテインというキャラクターであった。

 彼女のこの不満は「サグテの冒険の目的」が達する――キリとの再会のシーンで爆発する。
 彼女はサグテが救出したワイバーン・キリに襲い掛かるのである。

 キリはすぐに「なるほど。連れてきたんじゃないのね。この荒地で……あなたの最も恐れたものに出会ったというわけね……」とネムルテインの意図に気づいて反撃し、彼女を制圧する。

 ネムルテインは「どうして私が冒険しちゃいけないの……?これじゃ……これじゃ私の冒険が終わっちゃう……」と嘆く。

 ネムルテインが望んだものは、永遠に終わらない「安定的な関係性」だったのである。
 永遠にゴールにつかない冒険。
 心躍るような冒険が、未来永劫延々と続く、冒険のための冒険。

 ネムルテインは「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かしら「喪失」するものがあると分かっていたのだ。だから、彼女はその「喪失」を拒絶したのである。

 果たして、彼女の努力によって再びサグテとの冒険は続けられる事となり、物語はラストを迎える事となる。
 彼女はサグテとこの後も永遠に冒険を続けられるだろうか?
 それは、おそらくありえないのではないか。
 「永遠に変わらない状況」「永遠に変化しない生活」「永遠に変わらない関係性」というものは、現実的にはどこにも存在しない。
 無理にでも続けようとすれば、恐らくそれは「破綻」という形で悲劇的な終わり方を迎えてしまうだろう。

 だからこそ人は皆、人生の節々ですっぱりと「卒業」という事で自らの変化を迫られて生きざるをえないのである。ウェザリンも、きりんちゃんも、グウナも。

 「卒業」とは、両義的な価値のある節目なのだと言えるだろう。
 ポジティブな変化だとも言えるし、ネガティブな変化だとも言える。
 その節々で、人々は何かしらを「失って」きたのである。

 本書のラストを、このような「永遠に変わらない状況」「永遠に変化しない生活」「永遠に変わらない関係性」を夢見る主人公の物語で締めくくるというのは、非常に印象的に思える。

 このために、ぼくにはこの作品のラストの締めくくり方には「ハッピーエンド」とも「バッドエンド」ともつかない、妙にざわざわした奇妙な読後感を抱いたものである。
 この一編のために、ぼくはこの作品集の評価を決めあぐねていたと言っても過言ではない。

 しかし、ラスト直前のP.253までションボリとした表情をしていたネムルテインが、最後のページでは(恐らく「旅の終わり」を意味しているであろう)街を前にして、いささか表情を和らげているこの描写に、模造クリスタルの込めた「希望」があったと思いたい。

だれもがみちをまちがう
だれもがこころざしを
みうしなう

でもいいんだ
きみがむかしのじぶんを
おぼえているなら

むかしのじぶんを
おぼえていれば

しんぱいいらない
かならずもとのばしょに
かえれるから

ぼうけんにでかけよう
ながれぼしにみちびかれて

いっしょにいこう
ゆうきをだして

じゆうのみなら
なにをしたって
いい

でもほんとうに
じゆうのみなら
やることはひとつ

わたしたちふたりで
まよえるひとの
みちしるべに…

◆<結論>◆

  編集者に提案されたアイデアや原作があるような商業出版ではなく、基本的には「自分の好む世界観/物語/テーマ」を選択できる個人誌というスタイルで描かれてきた模造クリスタルの物語世界において、このように《「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちが何かを「喪失」する》というモティーフが反復されるのは意図的であれ、無意識的であれ、何かしら作者の心理傾向が表れていると言って良いだろう。

 このモティーフは本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも共通する構造なのである。

 ――つまり、そこに模造クリスタル個人が執着しているものがあるのではないか。

 模造クリスタルは「安定的な関係性に訪れる変化」というものに何かしら感性が働き、そこに自分なりのテーマ性を置いている作家なのではないかと思うのである。

 上にも書いたように「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」といったものに訪れる変化というものには、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

 そして、これらは誰の人生にも何らかの節目に訪れる機会だと言えるだろう。

 「卒業」する自分がこれからどうなってしまうのだろうか?

 ある人はそれにワクワク感を抱き、希望を胸にし、無限の可能性を見るだろう。
 またある人は、自由過ぎる選択肢の中で途方に暮れ、不安定な状況に投げ出される不安におびえ、仲間たちとの別れに胸を痛めるだろう。

 だが、どちらにしても彼らは、何かを「喪失」しているのだ――というのが、模造クリスタルの作品群の深層に横たわっている感覚なのかもしれない。

 新しくて、開放的で、希望に満ちた卒業、だが、それは反面、怖くて、不安で、そして悲しくて仕方がない変化なのだ。


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