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我は20歳、いまだ人になれず

私は今大学生である。大学生とは休憩の時代だとだれかは言う。子供から大人へと変わるさなぎの時代だと。高校生の時の私はそんなに休んでいられるかと思っていた。しかし、今なんとなくわかりかけている。子供から大人に変わるのがただ20歳になるというだけではないこと、子供と大人では視線が180度違うこと。

私は今まで勉強ばかりしてきた。もちろん、部活や行事にも精を出し、まあまあ素晴らしい学校生活を送っていた。生徒だった私は、ただ勉強さえすればよかったのだ。そうすれば、先生に怒られることもなく、周りから称賛され、親から褒められた。特にやりたいことなどなかったが、とりあえず勉強すれば、未来の自分の可能性がどんどん広がっていくと信じていた。その信条は間違ってはいなかった。ただ、いくら可能性が広がっていようと、無くなっていく可能性も少なからず存在していたことに気づかなかった。いや、それぐらいわかっていた、けど考えないことにした。自分が勉強してるときマルモリで子役が演技をし、自分が勉強してるとき大阪桐蔭が春夏連覇し、自分が勉強してるときビリーアイリッシュの名がとどろき。天性の才能と幼いころからの努力。彼らは一直線だった。本当はそうじゃないかもしれないが、同心円状に広がっていった私の世界と比べれば、彼らの世界は間違いなく一直線だった。私と彼らの世界の面積は同じかもしれないが、彼らはずっと遠くを進んでいた。気づいてはいたが直視できなかった。

そんな私は大学生になった。今まで通り授業を受けよう、私はそう考えた。しかし、できなかった。あまりにも授業のレベルが低すぎた。授業で扱う内容はどれもとるに足らないあまりにせせこましい物に思われた。その時私の信条が崩壊した。こんなことをせかせかと勉強しても、自分の可能性は広がらない。高校生の時は可能性の広がるスピードが圧倒的に早かったのだが、大学生になると、それが頭打ちになり、今まで隠れていたなくなっていく可能性たちが顕在化してきた。そこで私はある仮説にたどり着いた。自分の可能性を増やすのが子供で、減らすのが大人なのではないか?数直線上でずっと正の方向に走ればいいと思ってたのに、結局負の方向に戻らなければいけなかったのか。このヘアピンカーブは事故多発地点のようだ。靱帯が切れたり、足首をひねったり。いずれ何もしなくても周りが、自分を府の方向に戻してくれるのだろうが、それだけはどうしても避けなければいけない気がする。なぜだかわからんがどれだけ危なかろうと自分でターンを決めなければならない気がする。ターンする前が子供で、ターンした後が大人なのだろう。福君も藤波もビリーもすでにあのころ大人だったのだろう。私とは反対方向を向いていたのだろう。地面が数直線なら逆転することは非常に難しいだろう。だったら、振り子であることに期待して、さもなくば、自分から振り子に飛び乗って、この正の部分大まくりと行こうではないか。若いころ勉強しておけばよかった。その言葉まだ信じさせてもらうぞ。

そろそろさなぎから出るころか、20歳で成人するという特に根拠のない慣習は意外とちょうどいいものであったのだなあ。

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