ひとくち日記2023.12.21

 朝方まで『ユリシーズ』を読んでいたのだけれど、気がつくと寝ていたらしい。
 寝る間際に木原善彦の『実験する小説たち』のユリシーズについて取り上げている項を読み返した。いわゆる「意識の流れ」の解説である。本書で引用されている部分だけ読むと、注釈に当たらずとも(読み難くないとは言わないけれど)読めるように思えるのだが、実際の本を開くとそうもいかない。何を話しているのか注釈がないと分からない部分が多い。
 ただ注釈の記号があるから覗いてみると、大した情報が載っていない場合もあって、注釈多すぎるのも困りものだなぁと。

 昼頃、家を出た。ヨーカドーに寄って、シュトーレンを買う。クリスマスまでのお楽しみだ。
 昨年はセブンイレブンで買ったのだけど、今年は売っていなかったので、ヨーカドーまで行ったのだった。パン屋さんのシュトーレンだから、きっと美味しい。

 十五時から仕事。休憩時間に、堀江敏幸『熊の敷石』、ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』、沼田真佑『幻日/木山の話』、100分de名著『古今和歌集』のテキスト、『福音と世界 一月号』を買う。買いすぎ。

 というツイートを見掛ける。

 奈良美智がこう言っており、「そりゃそうだよな」と思ったものだが、このアライさんは粘り強い。

 こう来た。また、

 こういうことも言っていた。

 このツイート群に対して、何か発言したり、頭を悩ましたりするのは、無益なので、なるべくしない方が良いとは思うのだけれど、どうしても気になってしまったので、日記に考えを書いてお終いにしておく。

 私が気になるのは、「「作家」「アーティスト」として成功する」という部分。コムデギャルソン云々、校門でキメキメの記念写真云々と「成功する」ということは結びついているものと思う。
 つまり、「作家」「アーティスト」として成功するとは、コムデギャルソンを買えるくらい、孫子の代まで美大藝大に行けるくらい資本を得られることと、このアライさんは考えているらしい。
 しかし、作家は「成功する」ために、資本を得るために実作を行っているのかと言うと違うのではないか。己の精神(作家精神=作家性)の発露として衝動があり、それを如何なる形とするかが実作なのではないか。それで御飯を食べられるようになれば、万々歳。食べられずとも、実作はするものである。
 文芸の世界では、そういう人は珍しくない。というか、作家一本で食べて行くのは困難だからこそ、実作の純粋性が保たれているのかも知れない。
 この純粋性を如何に保つかを作家は常日頃から考えているものではないか。コムデギャルソンが容易に買えるくらいの環境──或いは自分の実存を賭けずとも実作ができる環境なんて作家にとっては毒だろう。それはコムデギャルソンが容易に買える価値観に身を縛ることだから。
 自分だけの価値観を堅持して、これを形にする営為が作家だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?