ひとくち日記2023.12.17

 朝方から雪が降り始めていた。風が強く、窓を叩くように雪の礫が音を発てていた。

 昨夜はneveuさんと短篇小説の読書会をやっていた。前回やったのが八月の半ばだったので、四か月ぶり。
 レイ・ブラッドベリの「十月のゲーム」「板チョコ一枚おみやげです!」と河野多惠子「赤い脣」を読んだ。
 neveuさんの読み解きの深さに感銘すると共に、自分の読みの甘さに歯噛みしたりした。もっと深く小説を読まなければ。

 よく分からない時間に眠り、よく分からない時間に目覚めるというのが、一種の習慣のようになっていた。
 眠る時は、意識が遠退くまで本を読もうと、三、四冊の本を枕辺に運び、一冊も手を付けずに寝入る。その時、時計は四時とか五時を指していたようである。
 寝入る前、ことちらさんに助言してもらった小説を加筆して、見てもらった。流れがスムーズになると、読者に優しいが、個性がなくなるのかも。という感想。良くはなっていると言ってくれているのだが、個性と読みやすさの関係は難しい。

 いつ頃か、意識がグチャグチャしながらも存在するようになり、寝床でグズグズして、時計を確認することを思い至るほどに私の形が確かになると、時刻は十五時過ぎを指していた。
 寝床で多和田葉子の「ペルソナ」を読む。いや、寝入る前に読んでいたのだったか。
 ドイツに留学している姉弟とその周囲の人間たちを描く作品である。ナショナリズムと差別意識が固形のように確固としてある訳ではなく、液体のようにジトリと溢れている。気味の悪い作品だった。最後のスペイン産の能面を付けて街を歩く場面は、この小説で唯一好きと言える場面だ。芥川賞の選評(「ペルソナ」は候補で授賞に至っていない)で黒井千次がラストに疑義を呈していたけれど……。三浦哲郎の選評には共感できた。「~のだった。」という表現がやたらに多い。

 シャワーを浴び、出掛ける仕度をした。図書館に本を返しに行く。外に出ると、扉に雪の粉がへばり付き、車の窓も真っ白だった。雪を降ろして、腹ごしらえにハンバーガーショップに寄り(雪の中を鞄を持って移動するのが億劫で、モバイルオーダーというのを使った)、目的地へ。十八時にちょうどに着いた。
 先日、読み終えたJ.M.クッツェーの『モラルの話』を返却する。新入荷本のコーナーに、2019年のブッカー賞を受賞したバーナディン・エヴァリストの『少女、女、ほか』が置いてあった。同時受賞がマーガレット・アトウッドの『誓願』だった年である。邦訳の出る前から、アトウッドと同時受賞の作品が『Girl,Woman,other』というタイトルなのは知っていて、「これは凄そうだ」と話したこともあった。気になるのだが、少々分厚く、年末は他にも読みたいものがあり、手を出せずにいる。

 館内でアドルフォ・ビオイ=カサ―レスの「墓穴堀り」を読んだ。サスペンス色の強い作品なのだが、途中で少し幻想に傾くか、となる。最後はサスペンスで締まる。上手いし、面白い。良い短篇だった。

 「墓穴堀り」所収の『パウリーナの思い出に』は返却し、ヘルター・ミュラーの『澱み』を借りた。既にアイザック・B・シンガーの『不浄の血』を借りているので、この二冊を抱えて帰った。

 帰り際、百均に寄って車用のゴミ箱を買った。フックにビニール袋を引っ掛けてゴミ入れとしていたのだが、これだと直ぐに溢れてしまうのだ。

 家に帰り、多和田葉子の「犬婿入り」を読む。よく分からない話だが、このよく分からなさが面白い。団地に住む母親たちと子供たちが形作るコミュニティの可笑しさが文体の上でも面白さになっている。楽しい。

 「犬婿入り」の選評も三浦哲郎が良いことを書いていた。

前回、「ペルソナ」で豊かな才能を示した多和田葉子氏に期待したが、今回の「犬婿入り」が内容も文体もがらりと変わっているので驚いた。(略)
私は、この作者がいろんな試みに飽きて、また「ペルソナ」へ戻ってくる日を待つことにしよう。

第108回芥川龍之介賞・三浦哲郎の選評より

 多和田葉子を読み終え、寒いので炬燵を出した。座卓は年中部屋の真ん中に出ているのだから、その周囲の散らかり様は酷い。片づけと掃除に時間を使う。

 炬燵で暖まっていると、お腹が空いてきた。冷凍庫に何かあるだろうと探ったら、冷凍の唐揚げくらいしかなく、炭水化物がない。腹が減った。炬燵まで出してしまったのだから、もう外に出たくなかったけれど、仕方なく家を出た。

 車通りは絶え、街灯もなく、遮るもののない田畑に積もった粉雪を巻き上げながら風が街道を大挙して吹きつける。視界は完全な白になりかかる。
 轟音を発て、辺りをすっかり明るくするライトを灯して、除雪車が道をゆっくりと進む。その巨体に慄きながら、道を進む。

 すき家でオクラ牛丼と豚汁を食べ、真っすぐ帰宅。

 集英社文庫から出ている『ラテンアメリカ五人集』に収録されている、ホセ・エミリオ・パチェーコの「砂漠の戦い」を読んだ。
 私はこういう少年時代の忘れ難い出来事。哀しい記憶。みたいな話に弱い。こと淡い愛が絡んでいると尚更。

 主人公の少年が、疎遠になっていた旧友から或る報せを聞いた後の描写など泣けてくる。

 その問いに答えるかわりに、わたしは席を立った。勘定に十ペソ札を出すと、おつりも待たずロサーレスに別れもつげずに、外に出た。いたるところに死が見えた。玉葱やトマト、レタス、チーズ、クリーム、隠元豆、グアカモーレ、チレ・ハラペーニョにはさまれてサンドイッチになりかけている動物の肉片の中に。インスルヘンテス通りの刈り込まれたばかりの木々のように生きている動物に。ミッション・オレンジ、スプール、フェロキーナといった清涼飲料水の中に死を見た。ベルモント、グラートス、エレガンテス、カシーノスといった煙草の中にも。

ホセ・エミリオ・パチェーコ「砂漠の戦い」より

 泉鏡花の「義血侠血」を読んだ時にも感じたような哀しさだった。良いものを読むことが出来た、と思った。

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