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「あの子の読んでる本は何?」阿波しらさぎ賞落選作

箸にも棒にも掛からなかった作品ですが、読んで貰える嬉しいです。
女子高生が瀬戸内寂聴の小説を読む小説です。

 読んでいた本が宙に浮いた。ユズコの読んでいる本を知るために、ユイが文庫本を取り上げたのだ。
 「ちょっと」ユズコは苛立った声を発てた。「何読んでるの?」と聞けば済む話なのに、どうしてそんな乱暴なことをするんだろう。ユイは隣の席に横向きに腰掛けて、開いていたページをじっくり見ている。
 ユズコはユイの方を見たくなくて、前方の黒板を見た。昼食の休み時間が終わったら、世界史の授業を地理室で行うということが、「世」の字だけ黄色いチョークで、白く書かれていた。
 教室は昼休みの喧騒に充ちている。小グループを作り、方々で嬌声を撒き散らす女子生徒たちの声で、黒板に書かれた克明なメッセージさえ掻き消えてしまいそうだった。
 ただ一人、窓際の机で布製のカバーを巻いた単行本を読む少女だけが教室とは関係のない存在のように静かだった。
 「アオイちゃん、何読んでるんだろ?」という独言とユイの「へー、瀬戸内寂聴ね」という声が重なった。独言は発声されなかったようにユズコの喉の奥に落ち消えた。
「そう。自伝、なのかな?」
とユズコは文庫本を引っ手繰り、言った。

 世界史担当のミナコ先生が黒板にアジア大陸の略図を描いて、戦時期の日本軍がどういう進路をとったのか説明している。世界史の授業なのに日本のことが取り上げられると不思議な感じがする。
 地理室は得も言われぬ汚らしさが備え付けの机や椅子に沁みついていて、嫌う生徒が多い。その部屋に押し込められた女子生徒たちは、日中戦争の動向など気にせず、睡魔に耐えたり、耐えなかったりしていた。
 ユズコはミナコ先生の視線を避けて瀬戸内寂聴の続きを読んでいた。戦時期の彼女は、まだ晴美と名乗っていて、夫に従って北京に渡っていた。北京の下宿に独り身の日本人男性がいて、その男と夫婦の三人で食事をとることもあったとか。
 ユズコはてっきり独り身の男と晴美の間にマズイ関係が生じると思っていたのだけど、そうはならなかった。ユズコの思う瀬戸内寂聴は性に愛に奔放な人というイメージだったのだけれど……。
 一通り大陸情勢について話し終えたミナコ先生が窓際の生徒に暗幕を下ろさせて、ビデオの準備を始めた。部屋が暗くなると、ユズコも授業に向き合わざるを得ない。
 「ミナコ先生は昔、ヤマンバだったらしい」と言う噂を聞きつけたのは珍しくユイが先だった。ユズコが噂話を収集してきて、ユイに教えるのがいつもの流れなのに。
「ヤマンバって何?」とユズコは率直に聞いた。
「逆パンダみたいなメイクしてる昔のギャルだって」ユイは素早く答えた。
「逆パンダって?」
「目の周りが白くて、肌はガングロみたいなやつ」
思わず「あー」と了解する声を出したユズコだったけれど、「ミナコ先生が昔ヤマンバだった」ということに納得している訳ではなかった。今のミナコ先生は色白で、春らしい緑のトップスに黒いパンツの姿。弾けていた頃の面影はない。
「噂は噂だからね」
 ミナコ先生が映像を再生する前に、李香蘭という女性が『蘇州夜曲』という曲を歌っている映像だと説明して戸棚の並んだ地理室の背面に退いた。
映像は想像通りモノクロだった。乱れる画面に水上の東屋のような建物が映り、湖畔の小道を学ラン風の服を着た男とチャイナ服を着た李香蘭と思しき女が並んで歩いている。
ユズコは大陸に渡った晴美もこんな風景のなかを歩いていたのだろうかと想像した。
北京と蘇州では全く気候も土地柄も違うのだろうけれど、男が桃の花を折って女に渡すロマンチックな風情は日本ではない異国であればこそ感じられるものではないかと思われた。
しかし北京にいた頃の晴美はロマンスと縁遠い印象もユズコは受けていた。実際の大陸は映画に描かれるほど夢の世界ではないということか。それとも、この頃の晴美はロマンスに見放されていたのだろうか。
映像が李香蘭からNHKのドキュメンタリーに変わっても、ユズコの想念はしつこく大陸のロマンスと瀬戸内寂聴の北京時代を思い描いていた。

 *
上半分だけ制服を着たアオイが朝食にフルーツごろごろグラノーラを食べながらテレビを見ていると、瀬戸内寂聴が映し出された。寂聴はアナウンサーに「老い」とか「死」とか「愛」とかについて色々聞かれていた。
 「あ、寂聴」と声を発てると、出掛ける準備をしていた母親が「何? 知り合い?」と笑いながら聞いてきた。
「いや昨日、学校の図書室に寂聴の本を借りに行ったから丁度だなと思って」とアオイは言った。
 母の冗談に生真面目な返答をして、アオイは我がことながら可笑しく思った。
「瀬戸内寂聴の何を借りたの?」と母親が素早くグラノーラを掬いながら聞いた。
「何も。借りたい本が貸出中だったの」
 「ふーん」と言ってグラノーラを食べ終えた母親は、さっさと仕事に出掛けてしまった。
 テレビの寂聴は軽やかに笑いながら「人間のありのままで良い」とか「人はいつか死ぬ定めなのよ」とか話している。
 グラノーラを食べ終えたアオイは、下半身だけ着たままのパジャマを脱いでスカートを履き、昨日借りた大庭みな子の『啼く鳥の』を鞄に滑り込ませて出掛ける仕度を始めた。
  *

一日の授業が全て終わって、教室からゾロゾロ女子生徒が吐き出される。
 ユイとユズコは家へ帰り着く前に、駅前のハンバーガーショップに立ち寄った。小腹が空いたとユイが言って、ハンバーガーを食べたがっていた。
 商品が出来るまでレジの横でお待ちくださいと女性店員が言って、二人はカウンターの前に並んだ。
「チーズバーガーなんて頼んで大丈夫なの?」とユズコが心配して聞くと、ユイは何でもないように「大丈夫、お昼も軽めだったし」とスマホを弄って言った。
ユズコの注文したミルクシェイクが先に出来上がったので、座席を確保しておくねと二人は別れた。
ちょうど空いていた二人席に座って、ユズコは鞄から文庫本を取り出した。
本を開くと瀬戸内寂聴の逢引の思い出が噴き出して来る。それは寂聴の戦後の記憶でもあるのだけれど、駅前の闇市といったディテールは前面に出て来ず、眉山の麓で身を寄せ合う凉太と晴美の姿ばかりが印象に残った。
ユズコは同じクラスの日向アオイが何を読んでいるのか気になって、彼女の本を覗いたことが幾度かあった。その時アオイの読んでいた本が瀬戸内寂聴の『花に問え』だった。
ユズコも同じものを読みたく思ったのだけど、図書室には蔵書がなかったので、同じ作者の自伝的小説である『場所』を手に取ったのだった。
ユイがチーズバーガーセットの乗ったプレートを持ってユズコの前に腰掛けた。
「瀬戸内寂聴読んでたの?」
「うん。開いてるだけ、だけどね」
「ふーん」と気のない返事をしながらユイはチーズバーガーに齧りついた。モチャモチャと咀嚼している姿をユズコは眺め、少し温くなったミルクシェイクのストローを咥えた。
「ミナコ先生がヤマンバだったって話この前したでしょ? あれ嘘かも知れないって」
 フライドポテトを摘まんでユイは言った。
「やっぱり。嘘っぽかったもん」
 ユイのポテトを摘まみ食いしながらユズコは言った。そんな気はしていた。
「もしかしたらミナコ先生のお姉さんじゃないかって。これも噂だから分かんないけどね」
「そうだね」と答えながらユズコは文庫本の頁に視線を戻した。噂が噂で塗り替えられる様子を見ていると、ミナコ先生がヤマンバだったという荒唐無稽な感じのする噂の方が案外真実だったりするのではないかという気がした。
「その本、良い感じ?」
口をモチャモチャ動かしながらユイが尋ねた。
「良い感じって聞かれても困るけど、面白いよ。すっかり変わっちゃった徳島の街を歩きながら幼少期の思い出を振り返るみたいな所とか」
 寂聴が古地図を頼りに、まだ戦火に呑まれる前の徳島を探して歩きまわる。嘗て生家があった場所にガラス工芸の店を発見する場面はユズコに強い印象を与えていた。
「あたしも瀬戸内寂聴読んでみようかな」
 とチーズバーガーセットを食べ終えてユイが言った。
 ハンバーガーショップの飲食スペースから見渡せる駅前は、ユズコとユイの小さい頃から大きく変わっていない。ユズコとユイの住む住宅地にいたっては、全く変化していないと言っても問題ないほど変化に乏しい。
 二人の幼少の記憶の町は堅牢な住宅地として完成していて、寂聴が小説で懐かしむような嘗ての町の面影は全く消滅していると思われた。
「分かる人が見れば分かるのかも知れないけどね」ユイがフライドポテトの箱を潰しながら言った。
「何が分かるの?」
「ミナコ先生がヤマンバかってこと」
「あー」
 二人は揃って水槽の魚のように駅前を緩慢に動く路線バスを見つめていた。

 昼食の休み時間にアオイは図書室へ出掛けた。借りていた『啼く鳥の』を返しに来たのだ。
「あれ一昨日借りたばっかなのに、もう読んだの?」
顔見知りの図書委員が本を受け取りながら言った。
「分厚いから一週間掛かるかと思ったけど、読めちゃった」
 アオイの返答に図書委員の女子生徒は、流石と呟いてパソコンで返却処理をした。
「予約してた本は、まだ来てない?」とアオイは少し気が急いて訊ねてみた。一昨日予約をしたばかりだから返却されているとは思えなかった。
図書委員の女子生徒は、ずり下がった眼鏡を顔の正しい位置に戻しながらコンピュータのモニタを確認して「えーっと、まだだね」と案の定の答えを返した。
 それにしても、とアオイは思う。瀬戸内寂聴の『場所』を借りたいと思う生徒なんているんだろうか。自分も借りたいと思っている生徒だけれど、それは様々な著書を既に読んでいるから発生した興味──元々のきっかけは映画だったような気がする──であって、高校生が何となく手を伸ばすタイプの本ではないように思うのだ。
 そもそも借りているのが生徒とは限らない。教師が借りている場合もあるだろう。
 何にしても、瀬戸内寂聴について借りている人物と話してみたいものだと思った。
 考えを巡らしていると、図書室の戸を開けた二人の生徒が、受付カウンターに近づいて来た。アオイは邪魔にならないように脇に避けて、生徒が差し出した本を盗み見た。
「あ!」
「え?」
「寂聴の『場所』……」アオイは思わず受付で声を出してしまった。
「わたしが予約してた本なんです……ごめんなさい急に大きな声出して……」
「ううん、大丈夫」とユズコはアオイのいることに少し動揺しながら言った。
   了

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