ものの日記2024.05.07

 陽に照らされた桜花は茶色く濁る。それはフライパンの上にぶちまけたみじん切りの玉ねぎが、炒られて変色した姿のようである。
 チリチリ焼ける花びらは、香りを振りまいているけれど、やがて香りは出尽くし、周囲に香りの痕跡だけ残して、みな焦げついていく。なるほど、太陽はコンロだし、花びらの敷かれたアスファルトは、テフロン加工されたフライパンかも知れない。
 玉ねぎも桜花も自ら望んで火に飛び込んだのでない所は同じである。玉ねぎは生産者の白々しい愛情を真に受けて、育つ。気がつけば、そこは畑ではなく市場であり、スーパーである。ビニール袋を千切る客の手を、新しい庇護者と玉ねぎは思っただろうか。
 それに引き替え、桜は平穏な生涯を生きているだろう。誰とも知れない偉そうな人──時には本当に偉い人の手で植樹され、何年何月、誰々が植樹したという札を掛けて、育つのである。公園の管理者が、添え木をしたり、剪定をしたりする。公園の管理者は薄緑の作業着を着け、同じ色の帽子に会社の名前を、紫の糸で刺繍している。老人とも言い難い、日焼けによって刻まれた皺をたどる汗を、桜は当然のものとして眺めていたのじゃないか。
 公園の管理は行政からの下請けで、年に一度の契約更新を同じ会社が長らく請負っていたのだけれど、近頃は会社が変わった。薄緑の作業着は、より薄くなって、紫の刺繍は消えた。
 都会では、訳もなく桜木を切る集団が増えている。今朝みたタイムラインの片隅に書いていた。彼らは薄緑の作業着など着けずに、チェンソーを翻して幹線路の脇に木を倒し、さらに細かく切断して縄でまとめ、トラックに積んで何方へ去って行くのである。

 尾崎紀世彦の歌っていた『太陽は燃えている』は、メキシコの歌曲に英詩を付けたものであるらしい。エンゲルベルト・フンパーディンクの歌ったバージョンでの名は『Love Me With All Your Heart』である。
 英詩に太陽は出てこない。邦題はメキシコの原曲から取られているという。
 歌われるのは一途な愛。今風の言い方をすれば、少々重いと取られかねない愛だ。
 レジの横に据えられたコンピューターで、この詩は検索された。尾崎紀世彦の歌が上手くって、歌声がいつまでも木霊して消えない。BGMの詰まらないピアノ曲の音を貫かないような、微妙な声音で『太陽は燃えている』が朗読されている。節をつけた朗読である。
 コンピューターの据えられた台の上に、表紙の赤い本が置かれている。T.S.エリオットの生涯と作品を紹介する本である。この本は会計されることを希望していた。家は、この本がやって来ることを希望していた。そうして本は買われ、家の内に収まった。
 Aという街の知事が遺した蔵書は、市民に利用されることを希望していた。図書館の中央に据えられた棚々を埋めたものが、その書物である。
 『山崎正和著作集』は一巻、二巻に戯曲を収める。しかし存命の内に、残された命もまだ充分の頃に刊行されたものだから、後半生の主要作品が抜けている。この著作集も、市民に利用されることを希望していた。
 もっとも窓際に置かれた棚の、閲覧用の机が窓辺に立ち並んで、利用者の目にもっとも止まりやすい知事の蔵書は、世界の詩人というシリーズであった。
 その一巻、『エリオット詩集』が、今は鞄の中に、かつては家の中に招かれていた。
 T.S.エリオットは、百年前に『荒地』という詩集を出して、人々を驚かせたという。
 何が人々を驚かせたのだろう。それを知らせるために、表紙の赤い入門書は、購入されることを希望したのだった。

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