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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/46】「44」顔に育てた山本功児、井上晴哉の背番号44】

割引あり

(写真 6代・二軍で首位打者も一軍で結果を出せなかった石谷訓啓、11代・巨人から移籍して花開いた山本功児、12代・川崎から千葉で活躍バイプレーヤー島田茂、14代・移籍後マスクで貢献した吉鶴憲治)


(46)「44」顔に育てた山本功児、井上晴哉の背番号44

 背番号44と言うと井上晴哉を思い浮かべる人が多いだろう。今シーズン11年目となる44はチームの顔となっているが、それもそのはず11年は背番号44の歴代最長でもある。ただ背番号44の系譜を辿ると、44で実績を挙げて若い背番号に変更した「出世番号」とした選手は少なく、逆に井上のように44を顔とした選手がいた。オリオンズ時代は後に監督となった山本功児、千葉移転時に44を背負った島田茂、マスクを被った吉鶴憲治と44に愛着を持ち、自分の顔とした選手の系譜でもある。

----- 現在の背番号「44」 -----

 ★《19代》2014(H26)年~2024年(R6)・11年目 井上 晴哉 内野手(在籍11年目)

  1989(H1)年7月3日(入団時24歳)、右投右打
  崇徳高‐中央大‐日本生命‐千葉ロッテ(14~)

 【井上 晴哉 背番号変遷】44(11)
 2013年のドラフト5位で日本生命から入団した井上晴哉が、背番号44を引き継いだ。
 巨漢の長距離砲として期待され、キャンプ、オープン戦で結果を残し、ルーキーイヤーの2014(H26)年開幕戦の3月28日ソフトバンク1回戦(ヤフオク!D)に4番DHでデビューする。ルーキーの開幕戦4番は球団史上、球団創設第1戦の戸倉勝城以来だった。この試合は無安打だったものの、4月4日の日本ハム1回戦(QVCマリン)で初安打、初打点を記録、12日の楽天2回戦(QVCマリン)では待望の1号を放った。しかし、打率は伸びず、出場試合数も減り、5月には二軍落ちする。その間、二軍で打席に立ち、フレッシュオールスターでは、2本塁打含む3安打3打点の活躍でMVPを獲得した。しかし、一軍では結果を出せず、1年目は36試合に出場し、打率
.211、2本塁打7打点に終わった。翌15(H27)年は二軍暮らしとなり、一軍では5試合、打率.182に終わった。
 16(H28)年は開幕一軍入り。開幕スタメンに名前を連ね、シーズン初打席で二塁打を放つ。しかし、以降は打撃の状態が上がらず、4月末には登録抹消される。その二軍では5月20日の日本ハム戦でサイクル安打を達成、規定打席には届かなかったものの、例外規定が適用されて首位打者にも輝く。しかし、一軍では35試合に出場し、打率.232、2本塁打16打点に終わった。翌17(H29)年も開幕スタメン出場。当初は打撃の状態も良く、上々のスタート゚だったが状態を落として5月に入ると抹消。8月に再登録も左ひざを痛めて再び抹消。シーズン終盤に再々登録も35試合の出場に留まり、打率.230、0本塁打11打点に終わる。
 5年目の18(H30)年は転機のシーズンとなる。ルーキーイヤー以来4年ぶりに4番一塁で開幕戦4番に座る。翌日には自身初となる2打席連続弾を放つ。例年、スタートは好ダッシュも状態を落とすのが特徴だったが、このシーズンも5月に状態を落とし、6月には扁桃腺炎で抹消される。しかし、6月末に復帰すると打棒が復活。4番に戻った7月は打率.400、7本塁打23打点で初の月間MVPを獲得する。以降、夏場も乗り切り、このシーズンは規定打席に到達して、打率.292でリーグ7位に名前を連ね、本塁打も20本を超える24本塁打33打点とチーム3冠を記録した。
 19(R1)年も開幕4番に座る。しかし、ヒットが出ず直後に抹消される。4月末に復帰すると、一発は出るものの打率が伸びない。最終的に本塁打は2年連続20本を超える前年と同じ24本塁打を放ったものの、打率は.252(リーグ24位)、65打点と伸びなかった。
 新型コロナ禍で開幕が6月となった20(R2)年は4番を外れたものの、6番で開幕スタメン出場し、開幕から好調な打撃を見せる。7月28日の楽天戦(ZOZOマリン)では自身初の1試合3本塁打を放つ。球団史上、日本人の1試合3本塁打は川崎時代の90(R2)年の初芝清以来、千葉マリンでは日本人初の記録となった。しかし、8月下旬からは状態を落とし、シーズン終盤には2割5分も割り、最終的に113試合に出場したが規定打席には届かず、打率.245、15本塁打67打点で終えた。
 21(R3)年は開幕スタメンを外れる。代打とDHを中心に出場していたが、6月2日の守備中に右手首を痛めて離脱。このシーズンは23試合の出場に留まり、打率.196、1本塁打6打点に終わる。オフには右手首関節の縫合手術を受けた。
 22(R4)年は手術のリハビリで出遅れる。7月初旬に一軍合流も下旬には新型コロナ感染で離脱する。復帰後は山口航輝、佐藤都志也ら若手の成長もあり、一塁で併用起用される。最終的に60試合に出場し、打率.246、7本塁打34打点だった。
 10年目となった23(R5)年は開幕スタメンに4番一塁で復帰。しかし、打撃が低調で打率も上がらず、一軍と二軍を往復するシーズンとなった。最終的に32試合の出場に留まり、打率.179と治氏最低を記録。1本塁打8打点に終わった。11年目の24(R6)年シーズンに復活を期す。

 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<601試合、打率.250、1944打数486安打、76本塁打、313打点、2盗塁>

 ◇初出場、初スタメン、初打席<2014(H26)年3月28日開幕戦・ソフトバンク1回戦/R(ヤフオク!D)/4番DH/
 ◇初安打、初打点<2014(H26)年4月4日・日本ハム1回戦(QVCマリン)/適時二塁打/
 ◇初本塁打<2014(H26)年4月12日・楽天2回戦(QVCマリン)/塩見貴洋から

 ※イースタンタイトル、記録<FA(14)MVP、サイクル安打、首位打者(16)>

 ※在籍時に選出された表彰
  ◆月間MVP/1回(2018年7月/野手)
  ◆月間サヨナラ賞/1回(2020年10・11月)

----- オリオンズ&マリーンズ「44」の系譜 -----

※1950(S25)~1951(S26)年 空番


 ★《初代》1952(S27)年・1年 西 省昭(にし) 捕手(在籍1年)

  生年月日不明(入団時22歳)、右投右打
  岡山・倉敷商業高‐毎日(52)

 【西 省昭 背番号変遷】44(1)
 1952(S27)年に岡山・倉敷商業高校を卒業し、アマチュアで野球を続けていた西省昭が入団。2年間空番だった初代背番号44を背負った。
 若手軍強化のために入団した20名の一人だったが、一軍では出場機会なく1年限りで退団した。

 <一軍未出場>


 ★《2代》1953(S28)年・1年 鵜飼 昭雪(うかい あきゆき) 捕手(在籍5年)

  1934(S9)年4月25日生(入団時18歳)、右投右打
  愛知・享栄商業高‐毎日(53~57)

 【鵜飼 昭雪 背番号変遷】44(1) ⇒ 29(4)
 1953(S28)年に愛知・享栄商業高校から入団した鵜飼昭雪が、背番号44を引き継いだ。
 1年目の34(S9)年は一軍未出場に終わり、二軍でマスクを被る。1年目オフに背番号を44から29に変更した。
 → 鵜飼昭雪 背番号 29 へ(有料エリア)

 ◆打撃成績<55試合、打率.133、98打数13安打、0本塁打、1打点、0盗塁>
 ◇初出場、初打席<1954(S29)年10月21日・阪急18回戦/R(明石)/代打/1打0安>
 ◇初スタメン<1956(S31)年4月5日・近鉄3回戦/H(駒沢)/8番捕手/2打0安>
 ◇初安打<1956(S31)年4月22日・南海/R(大阪)/8番捕手/2打1安>
 ◇初打点<1956(S31)年8月4日・阪急12回戦/R(西宮)/8番捕手/適時打/4打2安>


 ★《3代》1954(S29)年~1956(S31)年・3年 池田 啓一(いけだ けいいち) 内野手(在籍4年)

  1936(S11)年3月3日生(入団時18歳)、右投右打
  静岡・榛原高‐毎日(54~57)

 【池田 啓一 背番号変遷】44(3) ⇒ 39(1)
 1954(S29)年に静岡・榛原高校から入団した池田啓一が、背番号44を引き継いだ。
 投手として入団し、1年目から一軍マウンドに上がる。5月に登録され、16日の東映4回戦(沼津)で先発に抜擢される。しかし、2回途中で失点して降板。その後中継ぎとして3試合に登板し、1年目は4試合に登板、防御率5.14で終えた。
 元々打撃力が高かったこともあり、オフには二塁手として打者に転向。2年目の55(S30)年は二軍で研鑽を積む。3年目の56(S31)年には、開幕直後の4月に一軍合流。当初は守備固めが中心だったが、5月12日の大映4回戦(後楽園)に初スタメン出場を果たすと4打数2安打と結果を出す。以降、一軍に定着。三塁と遊撃のバックアップも果たし48試合に出場。打率.200で終えた。オフには背番号を44から39に変更した。
 → 池田啓一 背番号 39 へ(有料エリア)

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