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《有料・冒頭試読》 【マリーンズ略史 92~05/-74- ケガに苦しんだ現役生活・大塚明】


(74)ケガに苦しんだ現役生活・大塚明 (1994年~2010年在籍)

 2001年のオールスター期間の練習中だった。山本功児監督は打線の理想像について口にした。「コーチとして、監督として長年見てきたが、福浦、大塚、立川の3人はクリーンアップを組める力は持っている。3番に足があって堅実な大塚、4番に確実性の福浦、5番に一発がある立川。6、7番に外人、1、2、9番に小坂、諸積、セカンドにサブローを入れて状態によって入れ替える。打線が看板のチームになるんだがな」。
 1993年入団高卒野手組立川、大塚、福浦の同期3人の中から福浦が飛び出した。ファーストのレギュラーをガッチリとつかんだ。これに続くと期待されたのが大塚と立川だった。いや、大塚については常に3人の中で一歩先んじていた。
 高校時代は投手だったが、指名は野手としてだった。同期3人の中で、1年目から二軍で結果を出したのは大塚だった。1997年には二軍で盗塁王を獲得した。頭角は3人の中で一番早く現わしていた。
 しかし、引退する2010年まで、ケガとの戦いが最後まで続いた現役生活となった。

 【遊撃手としてスタート】

 大分県の別府羽室台高時代は甲子園とは無縁だった。しかし148キロのボールを投げる投手として話題となり密かに注目された。ロッテが1993年のドラフト3位で指名したが「打者」としての指名だった。「ボールは速かったですよ。でもボールがどこに行くか分からない(笑)。12球団全球団から指名あいさつを頂きましたが、全球団打者として指名すると言われました」。悩みに悩んだが周囲の勧めもありプロ入りを決意した。2位で立川、6位で小野、7位で福浦と後にチームを支えることになる高卒同期が入団した。

 球団は俊足と強肩強打の遊撃手として育てることになった。キャンプから守備の特訓が始まった。しかし、投手としての弱点だった「コントロールの悪さ」が遊撃の守備でも出た。一塁に送球するボールが定まらないのだ。それでも1年目から二軍でレギュラーに定着。6月の半ばまで打率は3割を超えた。結局、1年目は87試合に出場し、341打席に立ち、打率は.240、本塁打も9本を放った。高卒1年目としてはバットの結果はまずまずだった。ところが、失策数は34を記録した。やはり投手としてのクセがスローイングに出ていた。「実績がない自分は必死に野球をやるしかなかった。人の倍やらないと…」。大塚はキャンプからシーズン中とスローイングを自分のものにするために、何度も何度もボールを投げた。全体練習で特守をやり、終わってからは室内練習場でネット目がけてボールを投げた。ところが、これで後々まで苦しむことになる右肩痛の始まりだった。「突然痛みに襲われていたら直ぐに止めてました。でも、痛みではなく違和感がずっと続いている感じでした」。秋季練習はベテラン勢に混ざってリハビリ組に入った。

1年目は遊撃手、2年目は二塁手として二軍で研鑽した

 投げるのを抑えると痛みは和らいだ。2年目はサブローがショートに入り、セカンドに回ったことも大きかった。2年目の1995年も二軍で78試合に出場し、打率は.241ながら規定打席に到達、イースタン17位に名前を連ねた。本塁打も8本を放った。しかし、本来なら大きなアピールとなる足は不発。盗塁は8盗塁に終わった。「プロの技術に達していなかったんです。悔しかったですね」。
 翌1996年も着実に二軍で実績を積んだ。

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