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【全史】第3章 オリオンズを愛し、全てを捧げた永田雅一/1961(昭和36)年~1968(昭和43)年

(1)1961(昭和36)年 そして、オリオンズ永田伝説が始まった

専用球場建設に熱意。ようやく南千住に決定した

 1954(昭和29)年から始まったパ・リーグの顛末。1957(昭和32)年の毎日と大毎の合併、1960(昭和35)年のリーグ優勝、日本シリーズの連敗と全体の流れは第1章『毎日オリオンズ」から「大毎オリオンズ」へ』で綴ったので、ここでは省く。ただ、ここまでお読み頂いた読者の皆さんには、永田雅一という人間の「熱血」は、感じてただけたのではないだろうか。
 大言壮語、ワンマンさから「永田ラッパ」と呼ばれ、その熱血で大映という映画会社を引っ張ってきたのである。その熱血ぶりは野球界でも発揮。現場では疎まられることも多々あったようだが、間違いなく、球界で一番熱いオーナーだったであろう。そのオーナーがオリオンズに乗り込んできたのである。現場の戸惑いは大きかったはずだ。それでも「選手は自分の息子」と言って憚らなかった。西本幸雄監督の解雇も、毎日側の排除のためだったと私は思っている。

 そんな永田の熱血漢ぶりが如実に現れた、60(S35)年の日本シリーズのエピソードを紹介しておく。事前の下馬評では圧倒的有利との前評判もあり、いつもの調子でシリーズ序盤は「永田ラッパ」を轟かせていたそうだ。試合前、永田は大洋ホエールズ中部謙吉オーナーに「毎試合、一緒に野球帽を被り、肩を並べて観戦しよう」と提案し、二人で帽子をかぶって並んで観戦することになった。第1戦を落としたところでは、永田も「まだまだ、これからだ」と余裕を見せていた。しかし、その第2戦も胃がキリキリ痛むような展開に。そして1点リードを許して迎えた8回表の1死満塁のチャンス。ここでひっくり返せば、流れを引き寄せることが出来る場面だ。ここで、永田はおもむろに椅子の上で正座すると、ポケットから数珠を取り出しお経を唱え始めたのだ。永田は熱心な日蓮宗信者で朝と晩の読経祈祷を欠かさない人物だったが、さすがの中部も驚いたそうだ。
 この場面のスクイズ失敗が後の西本解任につながったが、永田にとって思い入れが強い場面だったこともあったのだと思う。第3戦以降、永田はほとんど口を開かなくなったそうだ。勝利のために球場で読経したオーナーは永田一人だろう。

 翌1961(昭和36)年、名実ともにオーナーに収まった永田。愛媛県松山市営球場のキャンプ地を訪れた永田は選手たちに「わしを男にしてくれ」と挨拶した。この時、永田はある決意を決め、動き出していた。球団を所有した当初から口にしていた「自前の球場」の建設である。

 永田が球界への参入を決意したのは、渡米した際に感じた「プロ野球球団オーナーの地位の高さ」だった。そのアメリカで目にしたのは、各球団とも自前の球場を持っていたことだった。永田は、大映スターズを所有した時から、事あるごとに自前球場の大切さを口にしていた。
 当時、大毎オリオンズは後楽園球場を本拠地としていたが、読売ジャイアンツとの併用だった。また、神宮球場は学生野球が優先だったため、国鉄スワローズも後楽園球場を使用していた。そのため、スケジュールの都合がつかないと、大洋ホエールズの本拠地・川崎球場、東映フライヤーズの本拠地・駒沢球場でもホームゲームを開催している様な状況だった。
 駒沢球場は収容人員も少なく、突貫工事で造られた内外野とも土盛りのスタンドのいわゆる地方球場の様な球場だった。そのため、収容スタンドを備えているプロ野球専用球場としては、東京には後楽園球場しかなかった。

 『野球界 1956(昭和31)年8月号』には、永田が球場建設をぶち上げる記事がある。新宿の大久保や国会議事堂近くの平河町などが噂に上がっていたが「現在、噂に上っている中で、一番愉快なのは日本最大の赤線・吉原に作ろうという話」と永田は話している。本業の大映も、1958(昭和33)年には、最高の売上げを記録し絶頂期である(後述するが、実際には翌59(S34)から下降傾向は始まっていた)。記者たちは「また永田ラッパの大風呂敷だ」と冗談半分で聞いていた様だったが、永田は本気で球場建設を模索していたのだ。

 そして4月、永田は球場建設を発表する。但し、まだ構想段階であり、場所も絞っているが、着工日も完工日も未定という状況だった。この段階で発表してしまうところが永田らしいのだが。
 その後、新球場建設は迷走する。正確に言うと、内密で動かなければいけないところだが、永田が口にしてしまうことが原因だった。一部週刊誌では永田の大風呂敷に懐疑的な報道もあったが、概ね好意的であり、建設予定地の噂も絶えなかった。ただ、次項で触れるが、この段階で週刊誌をめぐってひと騒動起きてしまう。

 結局、「新宿周辺」「隅田川沿いの工場跡地」「錦糸町」「木場」など、建設予定地の噂は次から次へと出ていた。まだ都内に工場がたくさんあった時代。候補地は次から次へと挙がっては消えた。
 最終的には深川の「東京ガス運動場」が有力と言われた。永田もここを最終候補に絞っていたが、新聞に記事が出てしまった。永田は「書かれたせいで、土地の値段が上がってしまった。何をしてくれるんだ」と憤慨したが、最終候補地であることを発表した。
 しかし、この深川の「東京ガス運動場」は頓挫する。永田は「代替地を用意したが、東京ガスと折り合いがつかなかった」と説明した。最後の最後で候補地を失ってしまったのだ。

 そして6月10日、正式に永田は大映本社で会見を行った。名古屋鉄道が「明治村」の様な施設を作ろうと計画し、すでに購入していた南千住の土地を譲り受けた。
 「かねてから念願だった新球場問題は、名古屋鉄道の協力によって無事解決した。場所は先に発表した深川東京ガス運動場を中止し、名鉄所有の荒川区南千住7丁目1番地に変更した。譲渡手続きは去る7日午後8時、東急ホテルで河野一郎氏立ち会いで名鉄千田社長と会い完了している」。
 さすがの永田もホッとした表情を見せた。
 
 場所は「戦前は官営の千住製絨所、戦後は大和毛織が所有する生地工場跡地」だったところだ。約10億円で用地を取得、総工費約20億円。驚いたのは、7月に着工し、翌1962(昭和37)年5月31日に竣工するというスケジュールだった。「アメリカの球場を模した、今まで日本にない野球場になる」。夢の実現へ向けた永田の晴れ姿だった。

 来シーズンの開幕こそ間に合わないが、永田の夢だった「新しい自前球場」が完成するのだが、この6月の発表後の7月、前述のとおり、週刊誌報道を巡ってひと騒動が起きる。

(2)1961(昭和36)年 週刊誌騒動『新球場疑惑』

1961(昭和36)年8月4日付朝日新聞に掲載された「謹告広告」

 衝撃的な謹告広告からご覧頂いた。1961(昭和36)年8月4日付朝日新聞に掲載されたものだ。株主に向けたものだが、発行元の講談社と記事を掲載した週刊現代を訴えるというものだ。それほど、永田にとっては許し難い記事だった。

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