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オリオンズ(裏)図書室マガジン【月額定額300円】

世に出ている資料の他、手元に眠っている表に出ていない資料に加え、毎日オンズ時代からファンだった父の日記、そして関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
【2023年1月から毎日午前8時更新!】 週5本ペースで毎日オリオンズからロッテオリオンズまでの歴…
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#オリオンズ全史

最終24章 オリオンズの歴史に幕 1991(平成3)年

(1)川崎改装、千葉と駆け引き  前年、大きな期待を寄せてトレードで獲得した高橋だったが、外野構想のアテが外れ、1年で阪神にトレードし、左腕の遠山昭治投手を獲得した。  そして、ロッテ本社が腰を上げた。1月18日、重光武雄オーナーの次男、昭夫(本社総合調査室室長)が球団社長代行に就任することを発表した。重光社長代行は「我々の相手は西武さんでも読売さんでもなく、ディズニーランドなんじゃないかと思う」と発言。これまでのイメージを払しょくする戦法に出た。  「テレビじゃ見れない川

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【全史】第21章 有藤監督、屈辱の最下位/1988(昭和63)年

(1)キャンプとドーム開幕  前年「機動力野球」を目標に掲げた有藤監督は、さらに加えて「守り勝つ野球」を目標に加えた。前年は現役引退直後で暗中模索の部分も多かったが、2年目の今シーズンは、どっしり構えて指揮していくことを示唆した。  オフの間、有藤監督はあまり動かなかった。コーチ陣が2人退団し入れ替わり、トレードも故障続きだった石川賢を新天地として大洋に放出し、堀井恒雄投手、小山昭晴捕手とのトレードを決めた程度だった。  11年間主軸を務めたリーに代わる新外国人として、ビ

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【全史】第20章 有藤青年監督新体制/1987(昭和62)年

(1)180度転換、有藤新体制  私にとって有藤というプレーヤーは特別な存在だった。記憶にある限り、サードにはいつも「ミスターロッテ」がいた。選手と言葉を交わすようになっても、有藤の前ではいつも緊張している自分がいた。その有藤が待望の新監督になった。本来ならば、新しいシーズンが楽しみになるはずだった。  しかし、発表されたコーチ陣を見て驚いた。当然、有藤の現役時代、日本一メンバーが支えると思っていたが、金田留と得津の名前が入っていたが、配置は二軍の投手コーチと打撃コーチ。一

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【全史】第19章 稲尾退任と落合放出/1986(昭和61)年

(1)熾烈な外野争い  稲尾監督はキャンプインを前に、レギュラー争いが激化しそうな外野陣に言及した。 「実力第一主義でいくがウチの外野陣は駒が豊富で、レギュラーを決める前に誰を一軍に残すかで頭を悩ますよ」。 まさに、嬉しい悲鳴だ。  前年までの実績ならば、レフト・有藤、センター・高沢、そして、前年ルーキーながら3割を記録したライト・横田という布陣になるだろう。しかし、有藤は今シーズン40歳。自身も「代打でも」という気持ちでいる。稲尾監督も「ウチは実力主義。それは有藤も例外で

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第23章 カネやん復活/1990(平成2)年

(1)カネやん「走れ、走れ」が復活  カネやんが12年ぶりに監督復帰し、早々にトレードを仕掛けた。前年の11月17日、水上、高沢と広島の高橋慶彦内野手、白武佳久投手、杉本征使投手とトレードが成立したと発表した。前々年の首位打者高沢とベテランの域に達した水上と主力2人の放出には驚いたが、前年、遊撃は佐藤健が.297/11本塁打と結果を出しており、広島でくすぶっている高橋を外野で再生させ、投手力の補強というカネやんの意向からだった。カネやんは「西村と高橋で100盗塁。2人で盗塁

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【全史】第22章 初の2年連続最下位に沈む/1989(平成元)年

(1)平成元年、パ・リーグとオリオンズも新時代  元号が平成に変わった。前年中心選手としてオリオンズを支えていた5選手が退団し。ドラフトで10選手が入団。浦和に二軍の新球場が完成し、二軍の主戦場が出来た。パ・リーグもオリックス、福岡ダイエーと新生チームが誕生。まさしく、新しい時代を迎えようとしていた。  キャンプは投手陣15名が沖縄県那覇市の奥武山球場で、野手陣は川崎球場でキャンプイン。10日から鹿児島県鴨池球場で二次キャンプが始まった。  投手陣で注目を集めたのは村田だ

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【全史】第18章 2年連続2位も独走許す/1985(昭和60)年

(1)落合ノースイングと復活期す村田  前年に引き続き、今シーズンも首位と2位が5ゲーム差以内ならばプレーオフを実施するというペナントレースとなる。  2月1日からスタートした鹿児島キャンプでは落合に異変が起きていた。バットを全く振らない調整を行っていた。キャンプ前、落合は醍醐コーチに「下半身が出来るまで、バットを振らない」と申し出た。当然、醍醐コーチは反対。稲尾監督に報告したが、稲尾監督の「好きにやらせよう」という判断で落合流の調整にGОサインを出した。有藤も「『振らな

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【全史】第17章 稲尾采配、チームを再覚/1984(昭和59)年

(1)管理野球に対抗、稲尾丸の放任主義  始動は1月10日、川崎球場での自主トレーニングだった。稲尾新監督の始動という事もあり、ほとんどの選手が参加した。前年、渡米してヒジにメスを入れた村田もリハビリ段階ながら参加した。そして12日、稲尾監督は全選手を集めて訓示した。 「アルコール、麻雀、ゴルフ、全てOK。ただし陽気にそして程々に」 細い目をさらに細めて笑顔で話した。報道陣に囲まれると「放任主義?そう思ってもらって結構です。ここ3年ほどでロッテには暗いイメージが付いてしまっ

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【全史】第16章 12球団最後の最下位/1983(昭和58)年

(1)キャンプ中の衝撃、レオンのトレード  冒頭、いきなりこのシーズンの結果を記すことになることをご了承頂きたい。それだけ、我々オリオンズファンにとっては、1988(昭和63)年が、今でも思い出したくないほど、悔しい思いをしたシーズンだったからだ。  1950(昭和25)年に2リーグ制となって以降、パ・リーグで最下位に落ちたことがない球団はオリオンズだけだった。セ・リーグは長らく読売と阪神が最下位に落ちたことがなかったが、1975(昭和50)年に読売が、1978(昭和53

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【全史】第15章 オリオンズ沈下への序章/1982(昭和57)年

(1)山本一義丸、かみ合わない歯車  1月12日、川崎球場で若手中心の合同自主トレーニングがスタート。20日から主力も加わった。山本新監督は「激しさをグラウンドに叩きつける『エキサイティングベースボール』」をテーマに掲げ、徹底した体作りと基礎技術の向上を目標とした。  2月1日、恒例の川崎大師参拝を終え、主力バッテリーは鹿児島県指宿市へ移動し2日にキャンプイン。本体は9日まで川崎で一次キャンプを行い、10日に鹿児島に移動した。ところが、前日9日に羽田沖で起きた墜落事故の影響

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【全史】第14章 山内体制で前期連覇/1781(昭和56)年

(1)「愛甲フィーバー」で幕開け  1月15日から川崎球場で始まった若手トレーニングが始まったが、様相が一変していた。前年のドラフト1位で指名した前年甲子園優勝投手の愛甲猛が入団し、スタンドには多くのファンが詰めかけた。アイドル並みの大フィーバーの幕開けだった。走っても、投げてもスタンドからは黄色い声援。川崎球場に移転して初めての光景だった。20日から主力も加わり、さらに熱くなった。  2月1日、恒例の「川崎大師」への参拝を済ませ、主力バッテリーは鹿児島県指宿市へ移動し、

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【全史】第13章 区切りの80年、前期Vへ/1980(昭和55)年

(1)前評判は「打線は上々、投手陣は…」  1980(昭和55)年がやって来た。オリオンズファンにとっては「0」がつく、大切な大切な区切りの年である。今までオリオンズの歴史にお付き合いいただいた方は、お気づきになるだろう。 ・1950(昭和25)年…毎日オリオンズとしてリーグ優勝&日本一 ・1960(昭和35)年…大毎オリオンズとしてリーグ制覇 ・1970(昭和45)年…ロッテオリオンズとしてリーグ制覇 西暦で「0」、元号昭和で「5」の年は、リーグ制覇を果たしているのであ

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【全史】第12章 山内丸の船出、「新ミサイル打線」構築へ/1979(昭和54)年

(1)「かっぱえびせん」本領発揮  「試合を見ていて、手にしているハンバーガーをね、思わず口に入れるのを忘れて、見入ってしまう。そんな野球をファンの皆さんに見て頂きたいんです。そしてね……」。  テレビのインタビューを受けた山内一弘監督。とにかく、話し出したら止まらない。このインタビューを編集した人も大変だったろうな、と思いながらテレビを見た。打撃コーチ時代も選手にアドバイスをし出したら止まらない。そこでついたあだ名が『かっぱえびせん』。そう、「やめられない、止まらない」の

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【全史】第11章 カネやん劇場、幕引きへ…/1978(昭和53)年

(1)本拠地・川崎球場での始動  1978(昭和53)年の主催試合65試合のうち、野球協約の規定である本拠地・川崎球場で33試合を実施し、残りの32試合を横浜と仙台での開催を模索していたオリオンズに対し、横浜市側の大洋への説得もあり、大洋側は「15試合までならば」と妥協した。しかし、日程決定のタイムリミットもあったため、年が明けて松井静郎球団社長の「中途半端なことは避けたい。川崎球場に全面的にお願いしましょう」という決断で川崎球場で56試合、仙台で9試合を行うことが決まった

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