マガジンのカバー画像

オリオンズ(裏)図書室マガジン【月額定額300円】

世に出ている資料の他、手元に眠っている表に出ていない資料に加え、毎日オンズ時代からファンだった父の日記、そして関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
【2023年1月から毎日午前8時更新!】 週5本ペースで毎日オリオンズからロッテオリオンズまでの歴…
¥300 / 月 初月無料
運営しているクリエイター

2023年9月の記事一覧

《全文無料》【マリーンズ略史 92~05/-49- 45年ぶりの12連勝 (2005年)】

(写真 初先発初完封の久保康友、最後を締めた薮田安彦、一発を放った大塚明) (49)45年ぶりの12連勝(2005年)  これまで幾度となく触れてきたが、NPBにおける連勝記録は「18連勝」である。マリーンズの前身・大毎オリオンズ時代の1960年に記録したものだ。ソフトバンクの前身南海ホークス時代も1960年に記録しており、NPBタイ記録となっている(但し毎日は1分を挟む)。マリーンズは毎日時代にも15連勝もマークしている。  2005年に12連勝を記録したが、球団記録の

¥150

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-48- 千葉で途切れた連続記録・愛甲猛(1981年~1995年)

(48)千葉で途切れた連続記録・愛甲猛 (1981年~1995年)  1980年、夏の甲子園で横浜高校のエースとして全国制覇。その年のドラフト1位でオリオンズに入団した。  3年間の投手生活の後、3年目のオフに打者転向し、4年目の1984年シーズンから打者として再スタートを切った。落合博満から徹底的に打撃技術を叩き込まれ、7年目、打者転向3年目の1986年シーズンにレギュラーを獲得した。  主軸打者として成長し、1987年から全試合フルイニング出場を続け、千葉移転後もこの

¥150

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-47- 絶対的エースの信頼・清水直行】

(写真 2002年マリーンズファンブックから) (47)絶対的エースの信頼・清水直行 (2000年~2009年在籍)  報徳学園、日本大学から東芝府中に所属。大学時代は右肩痛のため登板機会も少なく、社会人時代も都市対抗に出場はしたものの、派手な活躍はなかったが、安定したピッチングに評価は高かった。そして、1999年のドラフトで逆指名をし2位で入団した。東芝府中野球部が統合されたため、指名時の所属は東芝野球部だった。  エースナンバーを背負い、マリーンズのエースとして活躍

¥150

《全文無料》【マリーンズ略史 92~05/-46- 2003年 NPB記録/リーグ記録/珍記録】

この記事はメンバーシップに加入すると読めます

(写真 2004年度マリーンズファンブックから) (46)2003年 NPB記録/リーグ記録/球団記録/珍記録  山本功児監督の最終年となった2003年。4番を期待したローズがキャンプ中に退団したものの、代わりに開幕後に合流したフェルナンデスが32本塁打100打点を記録し、打線も活発化した。投手陣は清水直、ミンチー、小野、小林宏、渡辺俊と先発陣が揃い、抑えに小林雅。中継ぎ陣も充実しつつあり、育成に力を入れていた山本監督の蒔いた種の芽が出始めたが、シーズン成績は4位に終わっ

¥150

《無料公開》【マリーンズ略史 92~05/-45-胴上げ阻止、神戸3連戦(1995年)】

(写真はマジック1となって迎えた1995年9月13日近鉄戦の様子。16日まで球場外も人で溢れた(神戸新聞から)) (45) 胴上げ阻止、神戸3連戦 (1995年)  2023シーズン、パ・リーグはオリックス、セ・リーグは阪神がリーグ優勝を決めた。ともに2位チームに10ゲーム差以上の差をつけた圧勝で例年よりも早い時期の胴上げだった。ただ、現在の制度では、日本シリーズの進出はクライマックス・シリーズに委ねられる。両リーグとも、クライマックス進出チームが決まるまで目が離せない。

¥150

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-44- 中継ぎ切り札から先発の柱へ・小林宏之】

この記事はメンバーシップに加入すると読めます

(写真 2002年マリーンズファンブックから) (44)中継ぎ切り札から先発の柱へ・小林宏之     (1997年~2010年在籍)  入団7年目の2003年7月9日、小林宏は先発マウンドに上がった。前年2002年4月2日以来の先発マウンドだったが、奇しくも7月9日は2年目に初勝利を挙げた日だった。自身も「不安だった」という5回を超え、6回を2安打2四球に封じ、自身初の先発勝利を挙げた。通算先発として9度目、11勝目の勝利は待望の勝ち星だった。「ホッとしました。途中で頭

¥150

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-43- 先発の柱サブマリン・渡辺俊介】

(写真 ルーキーイヤー、2001年のマリーンズファンブックから) (43)先発の柱サブマリン・渡辺俊介     (2001年~2013年在籍)  「世界で一番低いところから投げる投手」と言われ、マリーンズを代表するアンダースローだった。2005年にはキャリアハイとなる15勝をマークし、ローテーション投手としてリーグ優勝に貢献、日本シリーズでは阪神打線を完封した。  アンダースローに転向したのは中学生時代だったが、大学まではコントロールに難があり、エースの座は手に出来なか

¥150

《無料公開》【マリーンズ略史 92~05/-42- 移転直後の快進撃(1992年)】

(写真 マリーンズの快進撃を伝える日刊スポーツ紙(1992年4月29日付け) (42)移転直後の快進撃 (1992年)  1992年、千葉県千葉市に本拠地を移転し、千葉ロッテマリーンズとしてロッテ球団は生まれ変わった。14年間本拠地としていた川崎球場に別れを告げ、新設の千葉マリンスタジアムが新しいホームグランドとなった。プロ野球は空白県だったが高校野球は古くから盛り上がっており、千葉に根付くことに期待は高かった。  そして開幕、前年最下位に終わったロッテだったが、生まれ

¥150

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-41-裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司】

(41)裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司(1994年~2006年在籍)  タイムリーを放ち守備位置に着く際、外野スタンドから「モーロ!モーロ!」とファンは飛び跳ねながらコールを送る。すると、諸積も一緒にジャンプして手を上げて応える姿が印象的だった。  2000年以降は代走、守備固めとしてチームを支える役割が多くなった。開場してスタンドにお客さんが入ってから急な雨で中止になると、真っ先にグランドに飛び出した。ダイヤモンドを一周してホームに水しぶきを上げてヘッドスライディ

¥150

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-40- 7年目のブレーク「サンデー晋吾」・小野晋吾】

(40)7年目のブレーク「サンデー晋吾」  2000年、開幕ローテーションに定着すると、日曜日ごとに先発して9連勝をマーク。「サンデー晋吾」と話題になった。小野晋吾プロ入り7年目のことだった。「石の上にも3年、小野は6年」と話題になった。  そして、なぜか日本ハムと因縁があった。小野は「意識していないけど、頭に残っているのは日本ハム戦」と笑ったが、生命線となったシュート習得のきっかけは二軍での日本ハム戦だった。初先発・初勝利も日本ハム戦、2000年のサンデー晋吾と呼ばれ1

¥150

《無料公開》【マリーンズ略史 92~05/-38- 前半快進撃支えた「ボーリック神話」(1999年)】

(写真 1999年4月14日、ボーリック初打席1号放つ(同日ОA千葉テレビ中継から) (38)前半快進撃支えた「ボーリック神話」(1999年)  今回は1999年の出来事から。このシーズン、マリーンズは開幕から好調を維持し7月7日に首位に立ったことは『(28)18年ぶり首位「七夕の歓喜」狂騒曲』(有料・冒頭試読)で綴った。  その前半の快進撃を支えたのは、このシーズンから助っ人としてチームに加わったフランク・ボーリックの『ボーリック神話』だった。1年目で26本塁打61打

¥150

《全文無料》【マリーンズ略史 92~05/-39- あわや、開幕連敗記録に王手(2002年)】

(写真 開幕投手のネイサン・ミンチー、骨折で離脱した小坂誠、連敗を止めた清水直行) (39)あわや、開幕連敗記録に王手(2002年)  年間、140試合以上の試合を行うプロ野球にとって、連勝と連敗はつきものだ。大きな連勝を記録すれば優勝に近づくし、大きな連敗を喫すれば下位に近づく。  NPB記録の連勝は18連勝、連敗は18連敗だが、ともに記録しているのは千葉ロッテマリーンズだ。18連勝は1960年に記録した。2度、南海時代に記録したソフトバンクの記録とともにタイ記録である

¥150