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はにわ

はにわが好きだ。

あえて埴輪と書かなかったのは、「はにわ」という単語のわたしに与える印象が、わたしのそれに対して持つイメージに限りなく近いからである。やさしく、のんびりとしているさま、音の持つ古風で柔らかな響き、どこかとぼけているようでいて掴み所のない不思議な感じ、おおらかでゆったりとした曲線美......埴輪の魅力のすべてがこの3字のひらがなに込められている。

わたしが埴輪をどのくらい好きなのかというと、友達と街を歩いていて偶然埴輪がいるお店が目に入った場合、直ちにお店の前に行きショーウィンドゥの前で30秒間ほど動かなくなるくらいである。さらにそれが帰り道の途中だった場合、程々に友達とは切り上げ、1人で即そのお店に逆戻りするほどである。もし博物館や美術館で埴輪に出会ったならば、見ものと言われるような所蔵品にかけるのと同じかそれ以上長い時間をかけてじっくりと眺めるし、撮影可能ならつい写真も撮ってしまう。そもそも埴輪と日常的に出会うことは難しいため、生活の中で目にする時間を増やしたくて九州国立博物館では埴輪柄のマスキングテープを買ったし、陶器作家さんが作ったかわいらしい埴輪のブローチも見つけた瞬間に買ってお部屋に飾っている。こんなふうに書くと埴輪狂のように思われるかもしれないが、別にいつ何時も埴輪と一緒にいたいわけではなくて、生活のふとした瞬間にたまたま埴輪を見かけると無条件に嬉しくなるのだ。

よく「好きになるのに理由はいらない」と言われるが、わたしにとっての埴輪がまさに良い例である。しかし埴輪に目覚めたきっかけはよく覚えている。その時わたしは海外の大学に通う学生で、東アジア美術に関する授業を受けていた。その講義は台湾人の先生によって英語で行われており、受講している学生たちも世界中から集まった留学生が大半であった。そんな様々な文化が入り交じる授業のとある一幕で古代日本美術の話になり、埴輪が取り上げられた。次々と大画面に映し出されるスライドの中の埴輪たちにわたしは目が釘付けになった。なんてやさしい顔をしているのだろうと思った。わたしはただひたすらに癒されていた。わたしが生まれる1000年以上も前に土で作られたものたちに。身体にかるい衝撃を覚えた。埴輪の持つ底抜けの明るさによって、自分がみるみる元気になっていくのを感じた。そして気がつけば埴輪好きを公言するようになっていた。

今こうして振り返ってみると、親元を離れての一人暮らしも、海外生活も大学生活も何もかも初めて尽くしだった当時のわたしは、いっぱいいっぱいな自分の状態にすら気づけぬほど余裕がなかったのだと思う。その埴輪たちは、ほとんどガチガチになっていたわたしの中にかろうじて残っていたほんのわずかな隙間から入り込み、ちからを与えてくれた忘れ難い存在だった。



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