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存在を無視すると起こる弊害―経済学論考 1―

この間、面白い現象に気づきました。ある理論を無視をすると、寧ろその無視をした論が際立ち、無視しているのに論として確立してしまう、という現象です。

例えば、ある人物Aが「ミクロ経済は事実上存在しない」と言ったとしましょう。

「世の中の貨幣はマクロ経済の分野で成立した信用貨幣論によって成り立っている。よって、全てのミクロ経済的現象はマクロ経済からの産物であり、この世には本来ミクロ経済学は存在しないと言って良い」

一見すると一理あります。
しかしこれを認めると大変なことが起こります。

上記の理論を認めると、この世にあったこれまでミクロ経済的だ、と思っていた経済活動は実はマクロ経済だった、ということになりますよね?
つまり最もミクロ経済的だと思われている経済主体と経済主体が価値を交換する「買物」という行為もマクロ経済的活動だ、ということになります。

ミクロ経済とマクロ経済の垣根がなくなります。
結果、どんなに小さな交換であってもそれは「マクロ経済」ということになります。
さて、過去私は「小さなミクロ経済学の集積がマクロ経済だ、という金融投資家たちの考えは間違いだ!」と言っておりました。

マクロ経済という「ベース経済」が存在しなければ、ミクロ経済というソフトウェア経済が成り立たない、というのが私の考えです。
マクロ経済はミクロ経済を内包している。しかしミクロ経済の存在は認めていない、ということはありません。

ところがここで、全てのミクロ経済が実際にはマクロ経済だと称されるものだとしましょう。
その途端、つまり元ミクロの小さなマクロ経済の集積がマクロ経済だ、ということになり、

「小さなミクロ経済学の集積がマクロ経済という考えは間違い」というこの根幹が完全に消去され

ミクロ経済こそがマクロ経済という名前ですべての経済学論を席巻してしまうわけです。

実に恐ろしい事態です。
マクロ経済を重視し、大切に思っているからこそ、ミクロ経済を無視し、マクロ経済だけに傾注するとなんと、「マクロ経済はミクロ経済の集積である」という間違いが正しい、ということになり、マクロと名前の付くミクロ経済がマクロ経済理論をどんどん破壊してゆくことになってしまうでしょう。

やはり、言葉は安易に省略したり、削除したり、否定したり、そして安易に肯定することも含め、容易く嘲弄するように使用してはならないのです。

やはり、言葉はだいじに使わなければなりません。

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