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帰結主義か?義務論か?―甘ったれた民主主義のガキ―

金銭的幸福を第一優先として唱えると、行き着くのが

「論理を優先させるが故に醜悪になる精神」です。

例えば、
とある犯罪を容認しそうな、
ですがまだ犯罪を起こしていない人がおり、
その人に対して不穏さは感じるが、
法的にはまだ不法者ではないAという人物がいたとしましょう。

とある親子がいて、そのAに愛すべき我が子を預けることが提案された時、その人はまだ法を犯していないのだから善人であるという前提に立って一切の疑いの余地なく、その人に我が子を預けるべきか?
それとも、Aの不穏さから不法の可能性を見出して警戒してAに我が子を預けない決断を下すべきか?

前者は問題なく子供が返還されれば、後者が非難されるでしょう。
一方で後者なら子供が害されれば、前者が非難されるでしょう。

ですが私は

前者を軽蔑し、後者を擁護します。

これは時系列的に考えると分かり易いです。
前者は全ての事象が経過した後にその選択が正しかったことが分かる視点です。
これを哲学の倫理学においては「帰結主義」、と言います。
時間の遡行が可能・可逆的です。

後者は物事が経過する前に、ある程度の「基準・規範」を持って、それと事象を照らし合わせることでその事象が「規範」に基づいていない場合、その規範を守ることを「義務」として何とか履行しようとする、強固な意志が必要になります。これを哲学の倫理学においては「義務論」と言います。
時間の流れは不可逆的です。

前者は実は経済学的な思考においてほぼ前提になっている倫理規範となります。古典派経済学から新古典派経済学、現代の主流派経済学に至る中で精通しています。

皆が経済的に豊かになる
 ↓
つまりそれまで選択してきた経済的選択は倫理的にも誤っていなかった、ということになる

という思想です。
可逆な時の流れなため、未然に防ぐ、ということができません。

つまり対策が必要な場合、帰結主義の場合は「手遅れ」です。

経済学的に善性を伴った帰結主義は「功利主義」とも呼ばれます。

一方で後者は、経済学的な視点では現代ではあまり捉えられません。敢えてて取り入れている学派を上げるとドイツ歴史学派経済学、制度派経済学になります。
歴史、民族、政治、国民生活、伝統、文化などそういったものを捨てないことと経済的発展を両立させる、そういった「気概」のある倫理規範だ、と私は考えています。
不可逆な時の流れなため、

未然に防ぐことこそが問題の防止策となります。

私は後者の倫理規範を持つ経済学を学びたい、と考えています。

昔、西部邁先生は、「経済倫理学序説」という本を出版されましたが、そこには、
・帰結主義に陥り「欲望のままに富裕を浅ましく求めることこそ立派である」という現代の零落した近代資本主義を嘆き、
・制度無き・歴史無きアメリカにこそ「制度を!」という高邁さを求めた制度学派経済学の創始者「ソースティン・ヴェブレン」を紹介していました。

今、裏金作りの政治家が報道で騒がれていますが、それはその帰結主義故の零落した姿ではないでしょうか?

その上で問いたいのですが、その裏金工作をした政治家をメディアと一緒になって叩き、騒ぎ立てる国民は、

彼らを選んだという罪の意識を持った上で彼らを糾弾しているでしょうか?

帰結主義的裏金政治家を糾弾できる国民とは「義務論で示された国民としての義務を履行できる国民」でなければならないはずです。

民主主義は国民の現身の政治家を選ぶ制度です。
あの醜い政治家を選んだのは

自分の醜い性癖によって、自分自身が選んだ、

という罪の意識を我々は、その罪の一つ一つを烙印として受け止めて、次の為政者を選ぶ、という義務を果たさなければならないのです。

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