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国民は倫理を求めよ!

あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。

数時間前、石川県で震度7以上の大きな地震と津波が発生しました。
石川県並びに、周辺の被災者の皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

さて、経済学者ケインズは、師アルフレッド・マーシャルの「経済騎士道」という倫理学的気質を批判していました。

大変ざっくりと、詳細は不正確ながらマーシャルの経済騎士道を説明しますと次の通りとなります。

  1. 市場は自由で構わない

  2. ただし、その自由な市場で活動するのは「経済騎士道」という倫理観を背負った「産業の将帥」である

  3. 故に、共産主義に陥ることもなければ、レッセフェールによる弱肉強食にも陥らない理想的な経世済民の社会が出来上がるだろう

以上のマーシャルの考えに対しケインズは何を批判したのか?
それは、『「経済騎士道」という倫理観を背負った「産業の将帥」』が登場しない現実を見て、の反応になるのではないか、と思われます。
ケインズが経済騎士道を批判する視点は、「第一次世界大戦」の最中、倫理の歯止めが利かない自由主義の競争世界の中で、マーシャル的には存在するはずの「産業の将帥」が全く力を発揮することなかった、という現実からの表出となるわけです。

マーシャルは、一貫して自由市場主義を推し進める姿勢を示しました。
マーシャルは論争を好まなかった識者で知られているのですが、イギリスの当時の関税自由化運動においては例外的に好戦的で、保護主義陣営側に「私マーシャルは、人間は人生全体を通じて騎士道的であるべきだと考えています」と述べていたりします。
自由主義が入ってきてもイギリス人の「騎士道精神」という理性が過激な競争を抑制し、上手に采配してくれる、ということを信じていたわけです。

しかし、現実にはそうはならなかった。
第一次世界大戦の当事国となったイギリスにおいて、騎士道精神を持っていた指揮官たち、将来「産業の将帥」になるべくした若者たちは死に、経済騎士道は発揮されることなく、結局、貧困は解決されることなく、富裕層は戦争により更に富を得、そして戦後復興でも富を得、自由市場主義の思想はタガが外れ、膨張を繰り返し更なる貧困を生み出そうとするわけです。

ケインズはそこで、経済騎士道の本来持つ「倫理的エッセンス」を経済学に「不確実性」という形で混入したのだろう、というのが私の考えです。
そしてその不確実性を混入しても理論破綻しない理論として「経済学をマクロ的に発展させる」ことで説明を可能にした。それがケインズ経済学の萌芽になったのではないでしょうか?

ただ、ケインズは同時に
「経済学に不確実性(倫理観)を混入したのだから、以降経済学には『経済騎士道は不要』」
と経済学のバックボーンの倫理学を排除し、ネオケイジアンが主導して結局現在の主流派経済学的「倫理観のない経済学を誕生させてしまった」、という側面もあるようです。

しかし、それは同時にケインズ経済学には全く倫理観がなかったのか?というとそれは違います。

ケインズの有名な言葉があります。

「長期的に見ると、我々は皆死んでしまう。」

この言葉だけが有名で後に何が続くのか、いまいち知られていないかもしれません。実は後に以下の言葉が続きます。

「嵐の中にあって、経済学者が言えることが『嵐が遠く過ぎ去ればまた静まるであろう』、ということだけならば、彼らの仕事は無用である」

これは、経済騎士道として、経済効率だけを求める精神ではない、不合理だろうと守らなくてはならないものがある、それを口にしないレッセフェールだけを唱える同僚の経済学者への辛辣な皮肉です。

もし、この度の地震という災害を目の当たりにしておいて、

『地震が遠く過ぎ去ればまた静まるであろう』
『それよりも増税だ!』
『震災復興税を徴税しよう!』

という態度であり、政治家、経済知識人等が「防災のための積極財政」に消極的であるならば、

私たちは

「そんな役立たずはいらない!」

と強く、排除を求め、

積極財政を行う実務者に首を挿げ替えなければなりません!


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