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「議論」に勝つ方法 経済学論考 4


■「議」とは「言」により「義」を見出すための論である

「義」とは辞書では「条理。正しい道。道理にかなった行為のこと」とのことで、儒学では思考の思想として語られる「仁」と合わせて「仁義」と表現することがあるほど重要な要素です。
仁を「真実の愛」とするなら、「義」は「仁愛のために行う行為」を示していると私は理解しています。
では「議」とはその「仁愛のための行為」を「知るために論じる」ということだと言えます。
逆説的に言うと、「『仁愛のための行為』を『知るために論じる』」のでなければ、「その議論は無意味だ」ということです。
つまり「結論が出なければ無意味」です。

■「結論の出ない議論」を称揚するのは「悪」

形而上学(結論の出ない超越感覚の哲学的議論)ではない以上、議論をする際に「結論が出ない」というのは「時間の無駄」であり「悪」です。
よく、議論の司会者や主催者が

「お互い議論を尽くしましたが、どちらが正しいとも言えないですね」
「結論が出ないのもまた議論」
「結論は出ませんでしたが、この議論でお互いの意見が深まりましたね」

と言って、仲裁を図ろうとする場面に出くわしますが、どちらがよりどれだけ「『仁愛のための行為』を『知るために論じる』」ということの優劣を競っているわけですので、この「結論が出なかった」というのは明らかにミスリードであり、嘘であり「都合の良い場の支配」を目論んだ、妨害です。

例外はあります。
それは、アウフヘーベン、テーゼとアンチテーゼがぶつかり新たな視点・ジンテーゼが相乗効果で生まれた場合で、その場合は優劣が付かないことがあります。しかしその場合は、論敵同士の互いの意見も相乗効果故に変質しているので、もはやそれは当初の結論を飛び越えた別の結論が出た、という場合です。
相乗効果がない状態で優劣が付かないにもかかわらず、「理解が深まった」という嘘を吐くのは最も愚劣な議論だったと言っているようなものです。

議論には議論する2名以上の人間が必要です。
そして明確に言えますが、その2名のどちらが優位でありどちらが劣勢かを競うことが議論です。
結論の出ない議論は議ではありません。

■議論と討論の違い

討論は基本「議論の仕方」で優劣をつけるものであり、話している内容は論点の検証を行っているように見えて、実際に評価対象とするのは「議論の仕方によりどちらが正当性があるように見えるか」になります。
それは「『仁愛のための行為』を『知るために論じる』」わけではないので『仁愛のための行為』じゃない側が呈した理論が勝つ場合があります。
それを「論破」と言いますが、これは正しくなくても勝つ場合があります。
こうなると議論内容における相乗効果は期待できないです。
討論者同士の場合はテクニックが拮抗して勝敗がつかない場合もあります。

一方で、議論者に討論者をぶつける手法はメディアの卑怯な手法としてよくあります。
討論者は論破を目的とするため、議論者が「議」に忠実であればあるほど討論者は議論者に劣位の印象付けを行うことができます。

■メディアに表れる「議論」と「討論」をすり替える人

議論のように見えて討論を行い、相手の方が議として正しいのに、間違っている側の偽りの議が勝利してしまう現象は
西村博之
堀江貴文
中田敦彦
橋下徹
などなどなどなど、様々なインフルエンサーと呼ばれる残念な人達がいますが、
最近では「石丸伸二」という奇怪な人物が、もっともその実態を知る上で良く分かるかと思います。
彼が面白いのは「討論」すらしないことです。
「討論しているように見せかけるテクニック」で「勝ちを演出する」だけで、勝ったことになる、この「議」どころか「言」の欠片すら見えない人物が、かつては地方議会で市長を務めた、というわけですから、この日本は地方レベルにおいて「議」が機能しないレベルにまで零落した、と言って良いでしょう。
彼の特徴は論点があればその論点を細分化し、並列化し、その中から都合の良いものを抽出しようとし、抽出できなければ無視をし、放置するというスタイルです。これは社会学者の古市憲寿が都知事選後の石丸伸二にインタビューをした、その内容を見れば明らかです。
あれは極端な「要素還元主義(細分化と細分化したものを並列化してしまう事)」的行為の表れです。

■まとめ:議論に勝つ方法

議論に勝つ方法は簡単です。自分の提案する言が相手の言よりも「『仁愛のための行為』を『知るため』」であればあるほど、勝てます。逆説的に負ければ、それは相手の言が「議」として優れていた、ということになります。

邪魔になるのが議論に討論を持ち込んでくる手法、「要素還元主義」的行為です。

要素還元主義についてはWikipediaをご覧になってください。

要素還元主義自体は全面的に否定するつもりは無く、物事を分析する場合には適しています。
しかし、分析した後、それを都合よくつなぎ合わせるのではなく、都合の悪い部分も排除せず、全体を再び集合させて結論を導くものでなければ(ホーリズム・全体論と言います)、それは「『仁愛のための行為』を『知るための論』」=「議」→「議論」とは言えません。
結論の出ない議論を繰り返すのは
「結論を出したくない」という劣勢側の甘えによる
要素還元主義的な方法による
『論点反らし』に過ぎません。

議論に勝ちたければ「『仁愛のための行為』を『知るため』」である「議」を尽くして、相手の要素還元主義を跳ね除けることで達成できます。

その場合だと、例え負けたとしても、相手から新たな学びを得た清々しい負けとなるでしょう。

負けたとしても、得るものがあった。
それこそもう一つの勝利です。

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