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終戦記念日に想う

私の両親と義父母は戦争体験者です。

父は昭和3年、6男1女の5男として生を受けました。
体調の問題で赤紙を免れましたが、三男の寅ちゃんを戦争で亡くしました。
寅ちゃんが戦争に行く前日に、新品の長靴をプレゼントしてくれたそうです。
最後に二人で散歩をしながら、寅ちやんは実父が既に他界していたため、実母と6人の兄弟の事と、結婚したばかりの妻の事を心配していたそうです。他の兄達も戦争に行っていたので、弟である父に「後の事を頼む」と言ったそうです。
寅ちゃんは自分に息子が産まれた事も知る事なく戦死してしまいました。
父は、「いまにも陽が沈もうとしている田んぼの畦道を、寅ちゃんと二人で歩いた時の事を何十年経っても鮮明に覚えていて忘れられない」と生前言っていました。

母は昭和2年一男四女の三女として生を受けました。
当時、学生動員でパラシュートを作るために現在の旭化成の工場にいたそうです。
B29が轟音を響かせ現れ、真っ暗な夜空にパラパラと光ながら雨が降るように爆弾が落ちて来たそうです。
旭化成の工場内にいた者は皆生存出来たそうですが、同僚達は「今夜空襲があるかもしれないから」と自宅に帰った人もいたそうです。
旭化成の工場に残っていた母は助かり、帰宅した同僚たちはご家族共に亡くなり、たくさんの友人知人が亡くなったようです。
母の兄も戦争に行きましたが、マラリアにかかり帰国したようです。
叔父は毎日が弾除けに使われているようなものだった。と戦争体験を話していました。
戦争で疎開していた従兄弟は栄養失調で亡くなったそうです。
戦後、母の友人の兄は戦犯となり、ご家族は誹謗中傷を受け、友人の姉は自殺をしたそうです。
戦争に行った者も行かなかった者も悲惨な状況だったようです。

義父は昭和4年、五男兄弟の三男として生を受けました。
16才で特攻隊に志願し.零戦の訓練を受け飛行当日に終戦となり命をいただいたそうです。
一緒に訓練をしていた親友は前日に帰らぬ人となったそうです。
別れ際に「明日は俺も行くから」と友人を見送ったそうです。
その亡き友人の名前を息子に付けたと聞きました。亡き友との深い絆を感じずにはおれません。
義父は終戦を知り、直ぐに故郷に向かったそうです。
帰るまでの道のりは、筆舌に尽くし難いものだったようです。
放置されたご遺体の焼却埋葬のお手伝いをしたそうです。
その中でも一番悲惨だったのは、原爆投下地だったそうです。
義父は亡くなる一年程前から戦争体験を話すようになりました。
それまでは、私が聞いても口をつぐみ、うつむくばかりでした。
余りにも悲惨で思い出すのも辛すぎる出来事であった事を戦争体験を聞く中で思い知らされました。

義母は昭和8年二女の長女として生を受けました。
小学生の間は戦争中だったので、ほとんど勉強という勉強はしてこなかつたと言っていました。
兼業農家の義母は食べる物には事欠かなかったようでした。
空襲を受けた時は豚小屋に弾の跡がいっぱいあったようでしたが、火災にならずどうにか免れたようです。

一人ひとりが体験した戦争
ここには、全てを書く事は出来ませんが、
なんとも胸が痛む出来事の一つ一つでした。

     その戦争がいまだに
    この世界から無くならない

これも現実です。

       平和は

いつも叫ばれ続けているにもかかわらず

     無くならない戦争



  一人ひとりの心の中が浄化され癒され

   争いの無い世界が現れる


   終戦記念日に願いを立てたい

       まずは

  私のココロから変わって生きます

#note   #夏の思い出 
#終戦記念日 #戦争体験    


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